2006年11月01日 06:43
「人は革表紙の聖書より革靴を履いた聖書の方を読む」という言葉を何かの本で読んだことがあります。人は余り読まない聖書からではなく、キリスト者との出会いから神様の愛を知る機会が多いという意味ではないかと思います。実際のところ私もY神学生との出会いが無ければ洗礼はおろか聖書も余り読まなかったかもしれません。私が小学生の頃のことです。当時通っていた教会の教会学校はにぎやかで何十人もの子供が通っていました。ところがある時、教会に来る子供数があれよあれよという間に激減していくという出来事がありました。私も何となく楽しいから教会学校に通っていたようなくちですから、余り深く考えずに「そろそろ僕もやめようかな」と考えていました。ところが、そう考え始めたのが誰よりも遅かったようで、気がつくといつの間にか教会学校に来ているのは自分一人になっていました。「うわ、どうしよう」と思ったものの、もし、自分まで来なくなったら、生徒が一人になっても一生懸命お話しの準備をしている先生が可哀想だから、誰かがそのうち来るようになるまでやめないことにしました。しかし、これが誤算で、それから一年間私以外の生徒は一人も来ず、結局私は一回も休めず、マンツーマンの教会学校を続けてしまいました。教会学校の先生はその当時、教会へ実習に来られていたY神学生(神学校に通う牧師のたまご)で、毎週趣向を凝らしてお話の準備をされていました。フランネルグラフというものを使って手作りの登場人物たちでお芝居したり、紙芝居をして下さったり申し訳ないほど一生懸命でした。私一人しかいないのに。しかし、私もやんちゃな時代ですし、まじめに神様を信じている訳でもありませんでしたから、先生を怒らせて「もう来るな」と言わせようと試みていました。今思うとまったくひどい態度で臨んだものです。私は自分が大変な事態になったと思っていましたけれども、先生の方が大変だったでしょうね。思い出すだけでも恥ずかしいです・・・。ところが、Y神学生は少し困った顔をされることはあっても、一生懸命私に向かい合ってくださいました。お話の準備に手を抜かれたこともありませんでした。私は子供心にも「なんてまじめなお馬鹿さんなんだろうか」と思っていましたが、しばらくすると、Y神学生の信じている神様が本物だからこの人はこのように人と接することが出来るのかもしれないと思えるようになって行ったのを憶えています。聖書の真髄、‘悔い改め’の姿勢をこのとき確かに受け止めさせていただいたように思います。間違いなく私のキリスト教原体験はY神学生との一年間のかかわりでした。これを言うともっと申し訳ないのですが、一年間のうち教えていただいた聖書の話で覚えているものは余りありません・・・。やはり人は革靴を履いた聖書を読むためでしょうか。





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