救い
2007 / 01 / 31 ( Wed )
 新約聖書のマルコによる福音書5章には救われた人々の物語が記されています。悪霊に取り憑かれていた男の人と、出血の病気の女性、それに死んでいた少女の3人です。一人は暴れまわっていた荒くれ男、二人目は内気な女性、三人目は無邪気な子供です。そして場所は、墓場に路上に家の中。しかも、それぞれの人たちは世間からつまはじきにされていたり、長年病気で苦しんでいたり、家族に可愛がられていたりと三者三様の人たちでした。この3人に共通していたのは‘万策尽きていた’と言うことでしょう。男性は墓場に鎖でつながれるほど見捨てられ、病気の女性は医者にさえも苦しめられていたとありますし、少女にいたってはもう死んでいたのです。もう、手の施しようがないと誰もが考える状態の中に神様の力が働かれるのです。3人が3人とも神様の力で救われました。しかも、その場でです。どのような状態であろうとどのような人であろうと求めれば必ず救われるということをこの聖書の箇所は語っています。諦めず、また躊躇せず、謙虚に求めてみませんか。
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洗車で判明!運動不足
2007 / 01 / 30 ( Tue )
 学生時代、姉から10万円で譲ってもらった1972年型の軽自動車が愛車でした。故障しては修理し、故障しては修理しての繰り返しで、一体いくらつぎ込んだのか分からない程です。修理の他にオールペイントやエンジンのオーバーホールまでしましたから、新車を買っていた方が安く付いたのではないかと言われたものです。エンジンも360ccしかありませんでしたし、エアコンも取り付け不可能でした。でも、真っ赤なボディーにクロームメッキ・バンパーのなかなか可愛いやつで、新宿や渋谷に行っても恥ずかしくない感じでした。故障さえ可愛く思えたものです。メーターパネルはプラスチックでしたが木目調だったので、それに合わせてハンドルはMOMOのウッドステアリングに交換し、さらにコンポに(だけ)はお金をかけて、イコライザー付きのアルパインを(自分で)取り付けていました。神学生時代の夏・冬休みの帰省ももちろん車を使い、しかも高速道路に乗るお金も、車のポテンシャルも無かったため、全て国道を走るという過酷なものでした(一度中国縦貫道を走ったところ、上り坂で高速道路の最低速度50キロを割りそうになり、後ろには長い渋滞の列を作ってしまい、尚且つその列の中にパトカーも混じっていたため、スピード違反で捕まるのではないかとビクビクしてしまったことがあります)。大体、東京~山口間の約1200キロメートルに40時間くらいかかっていたように記憶しています。本当に車も運転も大好きだったのです。今にして思うと本当におかしいのですが、2~3日に1回ワックスがけをしていました。天気予報で翌日が雨だと絶対洗車ワックスしていました。雨ざらしの車の塗装を守るためだとか何とか言っていたように思います。ところが、牧師になって、車をいじる時間も次第に無くなり、また、世間の目が気になりだし、‘洗車’イコール‘休み’もしくは‘暇’のようなイメージがあような気がして、次第に車を洗うことから遠ざかり今日に至っています。昔の友人が見たら「信じられな~い!」と言うでしょう。車はいつも汚れていますから。
 そんな私ですが、今日は約半年振りに車とバイクの洗車をしました。昔は車内はもちろん、ボンネットの中までピカピカにしないと気がすみませんでしたが、ボディーを洗って終わりです。しかもワックスは固形ではなくスプレー式を使い、あっさり終わるもののワックス効果は短命のものです。うーーん。やっぱり車に対する愛そのものを失ってきているのかもしれません。すごく疲労感もありますし。ううむ。問題は車に対する愛情などではなく、この疲労感かもしれません。運動不足以外の何者でもないようです。昨年の春まで、幼稚園バスの運転手もしていて、毎日マイクロバスを洗車していた時はこんなに疲れませんでした。そういえば体重も少しずつ増えてきています。もっと体を動かすことを考えなければならないようです。真剣に!。
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入眠
2007 / 01 / 29 ( Mon )
 連日「発掘あるある大辞典Ⅱ」納豆ダイエットデータ捏造関連の事が報じられています。以外と好きな番組だっただけに打ち切りは残念です(とは言うものの殆ど観ていませんが)。「隠されているもので露にならないものはない」のに、どうしてデータの捏造をしたのかさっぱり分かりません。更に今日の新聞によると1998年に放送されたレタスの入眠効果の回にもデータが捏造されたと言うことでした。私にしてみれば納豆よりレタスの方がショックでした。レタスに入眠効果があるとずっと信じていたからです。ただし、その情報が「発掘あるある大辞典」からだったのかどうか記憶にありません。寝つきの悪い人たち数名にレタスのサラダを食べてもらったところ、殆どの人たちに眠気がきたというビデオが流される番組を観た記憶があります。新聞記事によると「発掘あるある・・」の場合はマウスの実験のようですから、明らかに私が観た番組ではないようです。もしかしたら、やはりレタスには入眠効果があるかもしれません。その効果を今まで自分で確かめたことがないだけになんとも言えないのが残念です。ちなみに、レタスの白い汁にその効果があると聞きました。つまり芯の一番硬くて捨てられそうな所が一番効果があるそうです。誰か試してくれる方がおられると嬉しいですね。
 レタスの入眠効果についてしつこいと思われているのではないでしょうか。実はしつこいのです。だってレタスで眠れるならかなりの人が助かるじゃないですか。心療内科などに行ってみると、どうしてこんなに世の中眠れない人が多いのだろうかとどなたでもびっくりするはずです。また、なかなか心療内科や精神科の敷居は高いと思っている方が多い上に、時間を作ってまで病院に行こうとしない人もいるので、症状が悪くなるケースもあるのです。軽度で入眠障害とは言えないものでも、レタスで眠られるなら助かる人は随分居るはずだと思うのです。ですから、番組打ち切りは我慢しますから、テレビ局にはレタスで眠られるか眠られないかだけでも調べ直して頂けないものかと思っているのです。
 余談ですが、「最近眠れないの」という相談に対して「お酒でも少し飲んで寝たらいいのよ」などと言う不用意なアドバイスをする人の事を時々耳にしますが、絶対それはしてはいけませんよーーー。最初は眠れたとしてもお酒がなければ眠られなくなりますし、酒量もどんどん増えて行きます。はっきり言ってアルコール依存症まっしぐらになってしまうのです。それともう一点、酒に酔って寝た場合、‘アルコール覚醒’といって入眠後数時間で目が覚めてしまうので悪循環になります。睡眠薬とか精神科・診療内科に偏見を持っている方も多いかもしれませんが、軽い入眠剤は習慣性もないようですし、ごく普通の内科でも処方してくれたりします。睡眠で困っている方は自分のかかりつけのお医者さんに相談してみると良いと思います。
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門前の小僧・・・
2007 / 01 / 28 ( Sun )
 内海教会の(日曜日の)礼拝で歌う讃美歌は全部で4曲で、そのうち2曲はいつも同じ讃美歌を歌っています。聖餐式や洗礼式があっても、讃美歌を増やさず4曲で通しています。これは前任者から引き継いで行っているもので、特別深く考えずに継承してやっているものです。けれども、私も今度の春で内海に来て1年が経ちますから、そろそろ変更しても良い頃かなと考えています。
 ところで、同じ讃美歌を歌い続けた効用とでも言うのでしょうか。最近可愛い出来事が始まっています。親馬鹿と言われるかもしれませんが、3歳の次男が最近いつも歌うその2曲の讃美歌を大きな声で歌うようになってきたので、なんだかとっても微笑ましいのです。私も妻も、讃美歌を歌いなさいとか、聖書を読みなさいとか、説教を聞きなさいとか強制した事は一切ありませんし、それどころか、次男は三男と一緒になって礼拝中はオモチャをガチャガチャいわせながら遊んだり、礼拝堂の中を所狭しと我が物顔で走り回っている位なのです。
 ‘門前の小僧習わぬ経を読み’と言われるように、本人にしてみれば聞き飽きるほど聞いているわけですから、耳から自然に入って、何気なく歌っているだけだと思います。しかし、内海教会は礼拝出席者がものすごく少ないので、そんな子供の歌声もかなり響くのです。本人は全く分かっていないと思いますが、なかなか良い雰囲気を作り出してくれています。
 あとは、お祈りの時だけでも良いから静かにしてくれると最高なのですが・・・。
19 : 33 : 04 | 出来事 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
永久保障
2007 / 01 / 27 ( Sat )
 昨晩のニュース番組で、最近売れ筋の商品の価格帯が二極化傾向にあると言っていました。それは‘安くてそれなりのもの’と‘高くても良い物’で、特に高くても良い物が最近の売れ筋なのだそうです。段階の世代の大量リタイヤなども原因かもしれませんが、いわゆる格差社会が形付いて来ているせいかもしれません。私は物を大切にする方なので、出来るなら高くても長持ちする良い物を買いたいと思いますが、経済力がそれを許してくれません。それで出来るだけ安くても良い物を探すようにしています。・・・相当無理がありますが・・・。
 安いと言えば100円ショップが浮かびます。‘百均’と言うと笑われるそうです。100円ショップの安さの秘密は海外生産など様々ありますが、最も興味深いのは、不良品検査を適当にしている事だそうです。適当と言うと語弊がありそうですが、不良品検査で生じる人件費等を節約して低価格に結び付けているのだそうです。確かに不良品に当たることが良くあります。レバーファイルを5つ買って帰ったら、一つのファイルにレバーそのものが付いていなかった事もあります。でも、上述の背景がある訳ですから、激怒しなくて良いのです。業者の方も返品・交換を丁寧にすることでカバーする考えなので、気軽に返品・交換してもらえばいいだけの話なのです。ですから、100円ショップで買い物したときはレシートを絶対保管しておかないといけないということになります。
 ところで、最近の電気製品は長持ちしないので悲しんでいます。どんなに大事に扱っても長持ちしません。大手販売店では5年間無料保障を謳ってくれていますが、その保障期間を過ぎると大抵壊れてしまいます。しかも、電気製品の修理用部品は大体7―8年で無くなってしまうようですし、販売店もすぐに買い替えを薦める始末です。車も発売2年後にマイナーチェンジし、4年後にモデルチェンジしてしまう代物ですから、2年ごとに型遅れが生み出される仕組みになっています。もちろん部品のストックも10年もたないようです。高いものほど寿命が短いとは消費者泣かせな時代になったものです。
 高いものほど寿命が短いと言いましたが、反対に安くて(値段は自分で付けられて、0―∞)永久保障と言う代物があるのをご存知でしょうか。何を隠そう、神様の救いです。少し冗談めかして言っているように聞こえるかもしれませんが、私などこの神様の永久保証があるから、失敗や反省だらけの半生なのに人生を謳歌できています。本当です。
11 : 42 : 50 | 感謝 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
テンプレート
2007 / 01 / 27 ( Sat )
 このブログのテンプレートをいつまでも‘コスモス’では変かなと思い数日前に変更したところ、「自分のパソコンが古くて性能が悪いせいかもしれないけれど、ブログの本文が表示されなくなった」とお叱りを受けてしまい、再度変更するはめに。ところが、今日になってよく見てみると、前に書いたものが読めなくなつているのに気付きました。ガーン。再々度変更するのも厄介なのでコスモスのに戻しました。ころころ変えてすみません。
10 : 01 : 11 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
日曜日の礼拝説教
2007 / 01 / 26 ( Fri )
 牧師にとって苦痛なものの一つに毎週準備しなければならない‘礼拝説教’があります。全ての牧師がそうだとは言いませんが、私など週末になるとそわそわしてしまいます。比較的準備しやすい聖書箇所もありますが、まだまだ修行が足りないようです。ある先輩牧師に「牧師は一週間頭に漬物石を載せて生きているようなものだ」と言われたことがあります。説教にいい味を染み出させるために牧師はベテランになっても苦しみつ続けると言うことでしょうか。楽しめないと厄介なものですが、恐らく殆どの牧師にとって説教準備は、大変だけれども一番の楽しみになっていると思います。「説教準備が無ければ牧師も楽なのに」と神学生時代の先輩が冗談めかして言っていましたが、その時何人かで話したところ「やはりそれでは一番の楽しみがなくなってしまうよね」という結論になりました。そういえば、以前居た教会では、聾唖者のためにプリントした説教を用意したり、日本語がわからないアメリカ人夫妻のために英訳した説教を準備したりしていました(自分の英語力ではとても無理なので英語の得意な教会員さんに説教の原稿を木曜日までにお渡ししてお願いしていました)。今はとりあえずその必要がないのでそれぞれ準備していませんから、その頃に比べたら少しばかりは楽ですね。さあ、愚痴もこぼさず苦しみながら今日も楽しみましょうか。
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選択の連続
2007 / 01 / 25 ( Thu )
 世の中には素敵なもの素晴らしいものがたくさんあります。でも、その全てを所有する事はどんな人でも不可能です。自分の経済力をはじめあらゆる条件の下で、あれかこれかを選び取る以外にありません。同様に自分の人生においても、あれもこれもと幾つもの道を同時に歩むことは出来ません。結局、私たちは何かを切り捨てたり、選び取っていくしかありません。そういう意味で人生は選択の連続だと言えます。振り返って‘あのときこうすれば良かった’‘あのときこうしなければ良かった’と地団駄を踏みたくなることもありますが、まぎれもなくその時の自分自身の選択の結果に過ぎません。勘違いだろうと未熟さゆえだろうと、人生は自分自身の軌跡なのです。その時それを選んだ自分が確かに居ることを受け止めていくなら、過ちや失敗も、後ろを振り返ってばかりに終始する‘後悔’ではなく、成長の可能性を秘めた‘反省’をすることが出来るような気がします。選択後の後悔と反省の選択もあるということでしょうか。・・・そういう私は失敗ばかりの人生ですけれどもね。
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貝の炊き込みご飯
2007 / 01 / 24 ( Wed )
 今日お隣さんから貝をたくさん戴きました(いつもありがとうございます)。アサリのような大きさの貝でしたがアサリではないとの事。でも、アサリのように食べれば良いのだろうと、味噌汁や炊き込みご飯にしてみたところ、味が濃厚で身も締まっていて歯ごたえも良く、かといって硬くもなく、滋味に溢れたその美味しさに思わず脱帽しました。新鮮この上ありませんし、初めて食べた貝でしたから感動ものです。
 実のところ、小豆島での楽しみはもっぱら食べることくらいです。しかも、経済的なことや店の数なども含めると、考えるまでもなく、手作りで楽しむと言う結論に至ります。例えばピザ屋さんはありませんし、冷凍食品では悲しすぎますから、生地から手作りしています。うどんも高松ならたくさん安くて美味しい店がありますが、小豆島にはあまり見当たりませんので、ときどき自分で打って作っています。先日はどら焼きも作ってみました。子供の誕生日にはケーキを焼いて作ったりします。そんなこんなで、小豆島に来て色々とレパートリーが増えつつあります。今回のように思いがけない頂き物など本当に楽しくなります。アサリの炊き込みご飯(本当は何貝か知りませんが)など初めて作りましたし、それが美味しいとなると二度も三度も楽しめます。貧乏暮らしが長いせいか、子供たちもちょっとばかり美味しいとお菓子でもご飯でもリアクションがなかなか良いのも嬉しいポイントの一つです。そして、何を隠そう、今日もそうでしたが、時々妻と2人で一緒に作るのもまた楽しです。
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生きてきたね
2007 / 01 / 23 ( Tue )
 昨日の伝道協議会で、私の姉が勤務している保育園に関係する牧師さんたちや信徒の方々とお会いすることが出来ました。「私は小豆島の内海教会の牧師で三野と言いますけれども、○○保育園でお世話になっている○○の弟です。姉がいつもお世話になっています。」と挨拶させていただくと、たいそう喜んでくださったのでびっくりしました。
 世の中は狭いなあと思うと同時に、私にも姉の知らない人生があるように姉にも私の知らない人生が確かにあって、しかも、いろんな人たちの中でいろんな関りをもってしっかり生きてきたんだなぁと、当たり前のことですけれども、実感として感じられて、しかも、こうしてそれぞれの人生で出会った人たちが繋がってみるとなんとも言い表せない道のりを感じました。
 姉たちとは年が離れていたこともあって、私が15歳になるまでしか同居しておらず、その後もたまに会う程度に過ぎなかったからでしょう、いつも姉たちから子ども扱いにされているのを感じています。私も1990年から牧師になりもう45歳なのですが、いまだに姉たちの中の私は中学3年生どまりのようなのです。でも良く考えると反対に私も姉たちを高校生や短大生のままでイメージしているような気がします。
 前にも書きましたが、姉たち2人が熱心なキリスト者であったお陰で私のような信仰の弱い者が洗礼を受けられたのですから、やっぱり牧師になったらなったで「大丈夫なの?」と思うのでしょうね。今回、私はお互いに年をとってきている事を実感しましたが、姉はどうでしょうか。
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共に祈り共に支えあう関係
2007 / 01 / 22 ( Mon )
 今日は松山で行われた四国教区の伝道協議会に参加してきました。「御言葉に立つ教会」と題して先輩牧師お2人のお話を聞き、改めて牧師の職務の厳しさと喜びを考えさせられました。
 今回はおとなしくしている予定でしたから、それで終わるはずだったのですが、各分区報告と全体会の時に、なぜか指名されてしまい、内海教会から四国教区の共に生きるという姿勢を強く感じ感謝していることなど少し話させていただきました。どうも(最近、あまり話をするという機会が少ないためか)話しすぎてしまったかなと反省しています。閉会後、ある先生から「いやあ、三野先生は熱いですねー」と言われてしまいました。もう若手でもないので恥ずかしいし限りです。
 今日は何とか夕方のフェリーに間に合い、19時過ぎに帰宅することができました(高松から教会に一番近い港へは1日5便しかなく、夕方の便に間に合わなければ最終便になるのです)。すると今日一日で、祈りのハガキが教会宛にたくさん届いていました。そういえば今日は「信徒の友1月号」の「日毎の糧」で内海教会が祈りに覚える教会としてとりあげて頂いていたのでした。多くの教会の方々が内海教会のことを覚えて祈りの時を持ってくださり、更に署名入りのハガキを送って下さったわけです。そんなハガキが全国のあちこちから届けられてくると本当に感動します。献金も今日だけで2教会よりいただきました。本当に、支えられている、祈られているという実感を感じています。しかも、皆様からの支援や励ましは‘してあげている’というものではなく、信仰の仲間・伝道の同労者として‘共に’神様を証しし、‘共に’伝道を担うという姿勢であることをひしひしと感じさせられるのです。皆様本当にありがとうございます。
20 : 48 : 39 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
いつまで、どこまでなの?
2007 / 01 / 21 ( Sun )
 商品がメインとしか思えない本がよく書店に並んでいます。最近ロボなんとかというシリーズが創刊されたようで、テレビなどで盛んに宣伝しています。毎週か隔週なのか知りませんが、毎号組み立てロボットのパーツが付いていて、全部買うと二足歩行のロボットが完成し、コンピューターでのプログラミングや操縦も出来るという優れもののようです。しかし、一部1,980円もする本が何号まで続くか分からない上に、一旦買い始めてしまうと途中でやめられませんから(完成しませんから)かなりのリスクがあるような気がします。(でも、秋葉原や日本橋に行けば同じような二足歩行のロボットをパーツでも完成品でも10万円程度で入手できますから、恐らく50号程度まで発刊されるのではと思います。)
 話がなかなか本題に入れませんが、私の記憶では1980年代後半に「レンジにおまかせ」というのがこの手の走りで(次々に発行される本をストックして最終的に完成させる)、それには品物が付かず純粋に本を完成させるタイプでしたが、その後、品物付きのものが始まったと記憶しています。しかし、20年も同じような方式で品を変えて次々に発行されているわけですからそれなりの数が売れているのだと思います。かく言う私もかつて‘石’のシリーズを子供にせがまれて(途中まで)買っていたことがあります。
 買ってみたことがあるだけに‘途中で感じる不安感’を皆はどう思っているのか気になります。お金に余裕があって、延々と同じようなものをコレクションしたいとか、今回のロボットのように一つのものを完成させるタイプで言えば完成にいつまでかかるのか分からなくても気にならない人でなければしんどいように思います。最後まで買い続けられるかも不安です。そんなこともあり、買い始めた誰もが‘嬉しい’とか‘わくわく感’より‘イライラ感’や‘不安感’の方が勝っているのではないかと思ってしまいます。
 ここまで書いてきてなんですが、こういうタイプの雑誌の販売方式を批判するつもりはまったくありません。こういう方式だから普通買わないような人が買えたり、新しい文化に触れられる訳ですからかえって良いと思います。
 私が少し思ったのは、個人差はあるものの途中にほんの少しの不安感があると言うことです。そして、これに関連して、教会で行われている聖書の学びにも同様のものがあるような気がしたのです。教会によって呼び名は違いますが、‘聖書研究会’や‘聖書を読む会’といったもの、婦人会や壮年会、青年会などで行われる同様の‘聖書の学び’、そして何より日曜日の礼拝での‘説教’などにも似たようなことが言えるような気がするのです。いや、むしろ、もっと深い不安感が参加者にはあるのではないかとさえ思うのです。
 学校や教養講座、自動車学校などを考えていただければ分かりやすいのですが、きちんとしたカリキュラムがあって、それが公表され、予定に沿って講義や授業が行われていますから、自分が今どこまで課題をこなしているのか、どこまで何を理解しているのかがはっきりしています。ところが、教会の聖書の学びにカリキュラムなど存在しません。存在していても、ぺリコーぺとよばれる聖書日課であったり、年間予定に過ぎません。聖書の、或いはキリスト教の教えのどこまでを自分が理解しているかなど誰にも把握できていないのです。実際のところ牧師でさえどこまで聖書やキリスト教の教えを理解しているか分からないと思うのです。しかし、あまりこのことを神経質に考えすぎるのもどうかと思います。
 実はそれほど聖書やキリスト教の教えは奥が深いということです。ですから、「まだまだ良く分からないんです」と言っている人の方が「もうキリスト教のことは大体分かったから大丈夫」と考えている人より健全かもしれません。とは言え、「不安感を抱え続けるのは仕方のないこと」と言うのもおかしな話ですから、本当に中心となる大切なポイントだけでも明確にすべきだと思うのですが、人により、教会により、教派により微妙に違っているから厄介なのです。
 「不安は健全の証し。一緒に考えたり、悩んだりしましょう。」
だからこそお互いに人生も深まりますよ。
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航路で繋がる国道
2007 / 01 / 19 ( Fri )
 昨年末から1月3日まで大阪に行っていた事は以前に書いたとおりですが、そのとき見たと思わしき記憶の断片が突然蘇ってきたので、全国道路地図で調べ、その事実に驚いています。何かと言うと‘国道436号線’の標識を姫路で見たような気がしたのです。疲れていたので見たという記憶はありませんでしたが、突然脳裏に蘇ったのです。兵庫県の姫路港からバスの車窓から国道436号線の標識を見たような気がしたので、地図で確認すると確かに436号線がありました。
 何をそんなに大騒ぎしているのと言われそうですが(以前、小豆島にも唯一の国道がありますよと書いたことがありますが)、小豆島唯一の国道が436号線なのです。国道が都道府県を越えているのは当たり前ですが、海を挟んで県を越えて繋がっているとは驚きです。姫路港と小豆島の福田港を結ぶ航路でこの国道は繋がっているのでしょうか。このいきさつはいつか調べてみたいと思います。
 関係ありませんが、小豆島は香川県なのに電力会社は中国電力が管轄だったりしますから、調べてみると小豆島にはまだまだ幾つもの謎が出てきそうです。
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子供の薦める神学書
2007 / 01 / 18 ( Thu )
 経済的に苦しくて最近はあまり本を購入したことがありません。もちろん神学書も例外ではありせません。このままでは時代に置いていかれるのではと危惧することもあるものの、なんともいたしかたありません。それで、書斎の本棚に並んでいる本を繰り返し読むハメに陥っていますが、読み過ごしていたものや、読んでなかったものもあり、意外な再発見などがあって、それはそれで楽しんでいます。
 最近、1歳の三男が書斎にやってきては本棚の本を棚から片っ端に落としてサッサとリビングに帰っていきます。しかも、一仕事済ませた充実感と爽やかさをにじみ出させて「やれやれ、ふうー」といった表情で帰っていくのです。毎度毎度後始末が大変ですが、仕方ないと諦めています。ところが、時々、おもむろに一冊の神学書を私のところまで持ってきてくれることがあります。しかも、「見つけたよ。さあこれをお読みなさい」という誇らしげな表情で持って来るので何となく読んでしまいます。自分で選ぶとどうしても偏った傾向になりますが、子供が差し出す本は全く予想外の本なので以外と面白かったりします。
 そういうわけで、最近は三男がひょっこり持って来た本を見て「ああ、次に私が読むのはこの本なのか」と受け取っています。本棚から片っ端に落とすのだけやめてくれると嬉しいのですが・・・。
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オリエンテーション
2007 / 01 / 17 ( Wed )
 昨日のブログで‘説教は礼拝の中心ではない’と言いましたので少し補足しておきます。礼拝の中心は‘聖書朗読’と‘聖礼典’です。変な言い方をすれば、説教は聖書朗読のおまけのようなものです。また、聖礼典と言うのは聖餐式や洗礼式のことです。洗礼式は毎回ありませんが、本来聖餐式は毎回行うものでした(ローマ・カトリック教会は今も礼拝のたびに行っています)。現在プロテスタント教会では殆どの教会が毎週日曜日に行ってないのは、近代合理主義の影響だと言われています。しかし、そういう習慣になってしまったと言っても、礼拝学的に聖書朗読と聖礼典が中心であることに変わりはありません。
 このことに関連して言いますと、礼拝堂で一番大切なもの、中心となるものは‘聖餐卓’だと言われています。教会建築で一番最初に確認されるのは、この聖餐卓を東側に据えるようにすることです。礼拝堂は聖餐卓のある正面(聖壇)が東側になるようにされていたからです。それは昇る朝日に復活されたイエス・キリストを重ねて礼拝するためだったようです。最近では聖餐卓のある正面が必ずしも東側とは限らなくなりましたが、それでも伝統的に礼拝堂の正面を‘東側’と呼びます。ちなみに、この教会建築で最初に行われていた最も重要な聖餐卓設置のための東決めのことをオリエンテーションと言います。現在、教会建築に限らず諸集会の始まる最初のミーティングの名称に使われていますからなじみのある言葉ではないでしょうか。※オリエント:東方
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聖壇が無い教会
2007 / 01 / 16 ( Tue )
 (建物としての)内海教会で一番気に入っているところは聖壇が無いことです。教会によっては舞台やステージのように1メートル以上高くなっていたり、そうでなくても数10センチは高くなっているものです。ところが、内海教会には壇そのものが(仕切りも含めて)無く、全くフラットなのです。皆同じ高さで居られるところが気に入っています。もちろん牧師は礼拝中立っているので、座っている皆さんと目線は同じではないかもしれませんが、全ての人は神様の前で等しく平等であることを表しているようで、気持ち的にすっきりするのです。そういえば教会建築の歴史などを調べた事がありますが、説教壇が会衆席から数メートルも高いところに設置された時代もありましたし、説教者が大きく見えるように説教卓そのものを意図的に小さく作ったという時代もありました。少なくともプロテスタント教会は万民祭司の筈ですから、牧師は偉くもなんともありませんし、立派に見せる必要もないはずです。更に礼拝学的には礼拝の中心は説教ではありませんから、ことさら説教壇や説教卓、説教者を強調するのも理に適っていません。そんな訳で、教会の役員さんに「説教壇の無いのが気に入っているんですよ」と言いましたら、「昔はあったんですけれども、年寄りが司会するときに‘しんどい’からある時取っ払ったんですよ」と答えてくださいました。それを聞いてますます「良いなぁ」と思うようになりました。だって、人は本来神様の前で等しい存在で同じ高さにあるはずなのに、愚かにも上昇志向をもって「人より少しでも上に居たい」「上がりたい」と考えてしまいやすい訳です。‘上がる’なんて、そもそも‘しんどい’ことなのに。‘理解する’が英語で‘understanding’というのも意味深長な気がします。神様自体が低く降って私たちのもとへ来てくださる存在であることを聖書はずっと証ししている訳ですから、私たち人間が上へ上がろうなんて全くもってへんな話しです。
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さんのさんのさんのさんの・・・
2007 / 01 / 15 ( Mon )
 今日届いた年賀状に「前の住所で出して帰ってきたので書き直して遅くなりました」とありました。そして、「子供が3年生になったので以前聞いた三野さんのお姉さんが3年3組だった時の話を思い出し子供に話したところ、面白がるので親子で呪文のように唱えています」と書き添えてあり、なんだか恥ずかしく、また懐かしくなりました。その呪文のような台詞とはこのようなものです。
‘さんのさんのさんのさんのいもうとさんのさんのさんのおとうとさんのさんのくん’
 漢字と数字を使うとこうなります。
‘3-3(3年3組)の三野さんの妹さんの三野さんの弟さんの三野君’
 別にどうということはないのですが、私には2人の姉がいて上の姉が本当に3年3組になった時、下の姉が‘3-3の三野さんの妹さんの三野さん’と言われていたのは事実ですが、更に3つ年下の私のところまで話が来るわけもなく、‘・・・弟さんの’以下は私が勝手に付け足したネタです。でも、初対面で三野(さんの)という名前を覚えていただきたい人などにこれを言うと一発で覚えていただけるので時々口にしたことがあります。でも、もう子供っぽいので最近はあまり口にしたことはなくほとんど忘れていました。
 突然聞かされると恥ずかしさがこみ上げてきます。これ以上広めなくて結構ですからね。
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大神官ガジャ
2007 / 01 / 14 ( Sun )
 子供好きな番組に戦隊シリーズの「轟轟戦隊ボウケンジャー」があります。先日、何気なく子供の前で(その番組に出てくる敵の一人)‘大神官ガジャ’の物まねをしたところ、自分でも怖いくらい似ていて、3歳の次男も怖がり「怖いからやめて」と逃げ回っていました。面白いので物まねをしながら追い掛け回しているうちに慣れてしまったようで、次第に「もっとやって」と言い出す始末。ガジャは喉が痛くなるので、別の敵の‘闇のヤイバ’の物まねに切り替えようとしても「ガジャやって」と言い続けられます。しかも、何ヶ月か前に作ってやったボウケンシルバーの帽子を被って、やる気満々なのです。こちらもいい加減疲れるのでもうやめたいのですが、息子の感情はエスカレートする一方でなかなか離してくれません。またいで乗る自動車が‘サイレンビルダー’で、ピコピコハンマーが‘サガスナイパー’らしく、(こちらが勉強していようと)それらを駆使して迫ってきます。ローンのコマーシャルではありませんが、物まねは計画的にすべきでした。早く飽きてくれーー。
19 : 47 : 45 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
カセットテープ
2007 / 01 / 13 ( Sat )
 ラジカセが壊れてしばらくが経ちます。最近はCDかMDしか聴かないようになっていたので気になりませんでしたが、現存しているカセットテープをどうしようかと悩んでいます。たまに聴いてみてもいいかなと思うものの、別に聴かなくても困らない程度なので、いっそ処分しようかどうかずっと迷っているのです。
 そういえば勘当同然で神学校に編入したとき、着替えと布団と少しの本とカセットテープ数本だけしか持っていませんでした。そのとき持っていたテープもまだ残っています。あの時は先輩から壊れかけのテープレコーダー(それもとてつもなく大きい東芝ボンビートというの)を頂き聴くことが出来るようになりました。面白い事に数日後、そのことを聞きつけた別の先輩がやってきて「三野君、今日は君に必要なものを持ってきたよ。僕のところにあっても意味をなさないし、今の君の所でしか存在価値を発揮できないという代物なんだ。」といって小型テープレコーダーを差し出されました。見ただけでピンと来て「ありがとうございます」と受け取りました。先輩いわく「そう、その通り。S君にもらったテープレコーダーは再生は出来ても、早送りと巻き戻しが壊れていたのを俺は知っている。そして、こいつも壊れていて、もはや早送りしか出来ないんだ。そういうわけで、十分活用してやってくれ。」。そうなのです。早送りも巻き戻しも出来なかったため、曲が終わっても無音のまま最後まで再生し続けないとリバースしたとき最初から聞けないので不便していたのでした。
 あの時の2人の先輩たちの(2台で1台分の)テープレコーダーは天からの贈り物のように感じました。しかし、今「ラジカセをあげよう」と誰かに言われても、「邪魔になるから」と断ってしまうでしょう。もうあのカセットテープを聴ける事はないかもしれません。でも捨てられないんですよね・・・。
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年明けそば
2007 / 01 / 12 ( Fri )
 昨日、1月11日、数字の1が3つも並んで、いやがおうにも1月とか新年を意識させられました。例年なら1月11日だろうと2月22日だろうと何も考えないので‘どうしてだろう’と考えてみると、昨年末から3日まで大阪に行っていて年越しそばを食べていないことに気付きました。お餅は食べて新年を迎えた気になってはいるものの、どうも年を越してないような気分なのです。貧しいゆえの性分なのですが、我が家は季節の行事を大切にしています。お金をかけずにそれなりに楽しもうとしているのです。七草粥、花見、月見、紅葉狩り数え上げればきりがありません。年越しそばと言ったら一年を締めくくる一大イベントですから特に重要です。なのに年越しそばを食べていなかったと言うのは一生の不覚・・・とまでは言いませんが残念です。そこで、今更年越しもおかしいので‘年明けそば’をお昼に食べることにしました。こじ付けですが、年明けと命名したので、春をイメージして山菜そばにしてみました。こざかしいですか・・・。
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祈りの姿勢
2007 / 01 / 11 ( Thu )
 年賀状を見ているといろんな人の顔が浮かんできます。もう、連絡も取れない方、お亡くなりになられた方も含めてです。それで様々な事を思い出したりします。今日ふと祈りに関連して出会った方々のことを思い出しました。
 祈りは‘神様との会話’と言われます。「なるほど」と思われる方がいらっしゃるかと思えば「一人でぶつぶつ喋っているだけなのに?」と怪訝そうに受け取られる方もいらっしゃいます。私ももともと後者でした。しかし、三つの出会いで考え方が随分変化してきました。
 一つ目は学生時代「出世したい」とか「事業に成功したい」という祈りをしている人の話を聞いて‘それはおかしいだろう’と思い、親しかった牧師に「祈って良い事柄とそうでない祈りは、厳密にどう区別したら良いのでしょうか?」と問うてみたのです。‘少なくとも他人の誹謗中傷や呪いなどは絶対駄目だろうから、問題はどこで線引きするかだろうなあ’と考えていたのですが、その牧師は平然と「何でも祈って良いよ」と言うのです。「えっ、ちょっと待ってください。それはおかしいですよ。それなら誰かをおとしめてほしいとかその他どんなにひどい祈りもOKになってしまうじゃないですか」と反論しても「何でも祈って良い」と言うのです。「ただし」そう言ってこんなことを付け加えられました。「神様には何でも祈って良いのです。ただし、大切な事が一つあります。繰り返し祈り続けなければならないということです。」。よくよく話を聞いてみると‘人と言うのはどんなに真面目に自己吟味したとしても自己中心的な存在にすぎないから、吟味したはずの祈りにも自分勝手さが入り込んでいくもので、結局祈るべきでないような祈りも祈ってしまうのだ’と言うのです。更に‘でも、神様はそんな私たちの罪(的外れ)を重々承知されているから大丈夫なんです。だからこそ、開き直ってどんなことでも神様に祈り、祈り続けてみることが大切なのではないか。しつこく祈り続けていく中で、自分でも嫌になってくるぐらい祈り続けていく中で本当に祈るべき祈りが神様から示されていきます。そして的外れな祈りは自然に削り落とされていきますよ。しかも、自分が願い祈っている課題に対して自分は何をどうすべきか、すべきでないかなども具体的に示されていきます。神様はちゃんと聴いて下さっているし語って下さるからね。’
 二つ目は神学生時代に高森草庵という修道院での生活です。わずか数日間でしたが、様々な事を学びました。その一つは、早朝や夜のミサはもちろん、日中の労働(農作業など)、食事の準備片付け、読書の時間、聖書の学びなど、その全てが祈りの時間だと感じたことです。聖書には「絶えず祈りなさい」という言葉がありますが、指を組んで目をつぶって頭を垂れて一人でぶつぶつ祈る事だけを祈りだと言うのなら、‘絶えず’なんて全くもって不可能です。生活の全ての時間、神様と語り合い続けることが祈りの基本ではないかと思うようになりました。
 三つ目は、これも神学生の時代のことですが、‘祈りの人’と言われていた宣教師にあるときこんな質問してみたのです。「先生、祈りの課題を祈り続けるべき事だと先生も言われますし、私もそう思っています。でも、祈り続けると言っても、一体どれくらいの期間なのでしょうか?」ここで、私は格好を付けたかったのか「50年くらいですか?」と出来もしないことを生意気に付け足したのです。その宣教師の先生は顔色一つ変えず平然とこう答えられました。私はその言葉にものすごくびっくりしました。「祈りの課題が適うまでです」。ほんとうに参りました。
 年頭にあたり、祈りの姿勢を崩さないようにしなければならないと思いました。
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楽しんでがんばる
2007 / 01 / 10 ( Wed )
今日は次男の(来春)幼稚園入園手続きに行ってきました。少子化とはいえ、都会の人気幼稚園では早朝から並ばないと入園できないようですから小豆島は恵まれています。一学年数人のようですから受付時間内に行けば絶対入園できます。今日は制服や体操服の採寸や注文もしましたが、ついこの前まで赤ちゃんだと思っていた子がだぶだぶの制服を着ているのを見て微笑ましく思うのと同時に、‘春からこの子はこの子なりに社会に出て行き、自分なりの世界を築いていく’と思うと「大変だけと楽しんでがんばれよ」という思いがしました。時の経つのは本当に早いものです。私も今度の春から内海教会2年目になります。子供に負けず楽しんでがんばろうと思いました。
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欠けた所の全く無い完全な平和
2007 / 01 / 09 ( Tue )
 聖書に良く出てくる言葉に‘シャローム’があります。‘平和’という意味のヘブル語ですが、そのままではなくやっぱり訳されて聖書に出てきます。それは‘おはよう’だったり‘こんばんは’だったり‘主の平安があなたにあるように’だったりします。そう、ユダヤ社会では‘平和’と言う意味の単語がそのまま挨拶の言葉になっているのです。「変なの」なんて言わないで下さい。日本語の‘お早う’‘今晩は’も冷静に考えると結構変ですからね。歴史的に争いが多く、平和があまり無い社会ゆえ‘シャローム’と言い合うようになったのかもしれません。
 しかも、‘シャローム’の意味する平和は厳密に言えば‘欠けた所がが全く無い完全な平和’を意味します。日本人は聖徳太子以来(?)‘和をもって尊しとする’で来たためかどうかは知りませんが、表面的な平和で良しとしている風潮があるような気がします。‘水に流す’という言葉は懐の広さを感じるにしても根本的な解決策とは程遠いものです。心にしこりやわだかまりがあっても表面的に平和であれば良いのでしょうか。
 人格者は我慢も平気なのかもしれませんが、殆どの場合はいわゆる弱者が我慢を強いられているのが現状ではないでしょうか。弱者と言うのは言うまでもなく‘弱い人’ではなく‘弱い立場に立たされている人’のことです。多くの場合、多くの人は弱者を視野に入れていません。そのような状況で、自分の身の回りが平和そうに感じたとしても、それは見かけ上の平和に過ぎません。
 ‘欠けた所の全く無い完全な平和’なんてこの世に存在しないでしょう。けれども、‘欠けた所の全く無い完全な平和’を目指したり夢見たり意識しているだけで、本当の幸せに一歩近づけるような気がします。
 あなたに神様の平和、欠けた所の全く無い完全な平和が訪れますようにと祈ります。
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信徒修養会
2007 / 01 / 08 ( Mon )
 今日は香川分区の信徒修養会が琴平教会でありました。10時30分スタートでしたから、7時50分発の草壁港発高松港行きフェリーに乗らなければなりません。それはどうということはないのですが、今回内海教会と香川豊島教会の信徒の方お二方の証しを聴くことになっていたのに、内海教会の予定者が体調を崩されたため、急遽私がピンチヒッターを努めることになりました(それで昨日は準備のためブログを書く余裕がありませんでした)。また、今回の新しい試みで各教会の近況報告や紹介と共に何か出し物をしようという企画があました。たった一人で参加した私は色々考えた挙句、クイズを出してお茶を濁すことにしました。とはいっても、楽しめるクイズなら何でも良い訳がありませんから、聖書や信仰がらみで尚且つ内海教会からのメッセージ性のあるものを用意することにしました(そう申しましても行きのフェリーでちょこちょこっと10分ほどで準備したに過ぎませんが・・・)。また、別の出し物で1961年生まれの牧師3人(坂出、丸亀、内海)で讃美歌を歌う予定でしたから(後に2人加えて5人の予定になりました)、今日は大忙しの予感がしていました。しかし、皆さんの和気藹々とした親しみやすい雰囲気のお陰で、いずれも楽しい時間となりました。若手(?)牧師連中の歌は時間の関係でカットされてしまいましたが、食事や休憩時間などたくさんの方々とお話しすることが出来てとても恵まれました。何人かの方々から「ブログ見ています」とも言われ、びっくりするやら嬉しいやら。朝雨に降られた嫌な記憶も失せて、今日は満たされた気分で帰途につきました。
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家族全員揃ったら
2007 / 01 / 06 ( Sat )
 上の子供たちを連れて年末から釜ヶ崎に行っていたので、その間、妻と下の子供たちは妻の実家に帰省してもらっていました。やっと全員揃いましたが、やっぱり家族バラバラと言うのは例え数日間でも寂しいもので、全員揃うとほっとします。皆が単に寂しがりなのかもしれませんし、愛し合っているからかもしれませんが(笑)、お互いに濃く関りあっていたからではないかと思います。
 ‘子供は、小さい時には手がかかり、思春期になったら気にかかり、もっと大きくなったら金がかかる’なんて言われますが、我が家は1歳、3歳、14歳、16歳と子供が4人居ますから、人数の多さに加え、それぞれの年齢に応じて手がかかったり気がかりだったり、結構時間も手間も費やしています。そこで夫婦力を合わせて何かと協力しリズムが出来ているのですが、何人か抜けてしまうとそのリズムがちぐはぐになってしまうのかもしれません。全員揃うと料理はもちろん、食器洗いや洗濯の量などが増えて労力も増えますし、会話だってそれなりに量も質も必要となります。自分の時間が減るには減るのですが、リズムがかみ合って協力し合ったり関りあったりした方が気持ち的に楽な気がします。
 反対に誰かが抜けると、あれほど欲しかった自由な時間が増えるのですが、どうも時間をうまく使いこなせない上に、調子が出ないのです。
 そんなことを今日は考えていました。
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あなたは罪人ですか?
2007 / 01 / 05 ( Fri )
 「あなたは罪人だ!」と言われたら大抵の人は頭に来ます(犯罪人というイメージに結びつくからでしょうか)。この‘罪’という言葉は聖書によく出てきますし、キリスト教でも大事な言葉ですから厄介です。原語はギリシャ語‘ハマルティア’で‘的外れ’という意味ですから、日本語で言う‘罪’とはちょっと違うのです。ちょっと違うのに‘罪’と訳され、日本語の聖書に記載され、教会でも頻繁に語られているのです。困ったことに、教会では完全に市民権を得ているのに、一般には誤解されやすい言葉なのです。これは訳に無理があるのであって、殆どの人には責任がありません。もう一言付け足すと、教会に通っておられる人の中にも誤解している方がおられますから、本当に厄介な言葉です。
 ‘罪’と言うとどうしても‘悪いことをした’という観点を連想しますが、もともと‘的外れ’ですから、‘悪いことをした’はもちろん、‘すべきことをしない’という視点も含まれるのです。むしろ、この‘すべきことをしない’に比重が重いように思います。マルチン・ルターなど「日々罪を悔い改めよ」と言っている訳ですから、‘罪’を誤解してこれを実行しようとすると、毎日どんなに小さなことでもいいから‘悪いことをした自分’を見つけ出して懺悔しなければならなくなりますから、それでは人生が暗く落ち込んでしまいます。マザー・テレサは「愛の反対語は無関心です」と言いましたが、まさしく無関心で、関れるはずの大切な事柄の前を通り過ぎてしまう自分、或いは相手の気持ちを確かめずに思い込みと先入観で関るトンチンカンな自分などが含まれると考えていただくと分かりやすいと思います。また、自己中心性などもその根っこにあると思います。
 そうしてみると私たちは多くの関りの中で‘的外れ’なことをしてしまっていることを思います。‘罪人’と言うのも‘罪’を犯したから‘罪人’なのではなくて、‘人は的を外し易い性質を持っている存在’ということになります。そのことに気付いていく中で人は成長させられていくように思います。私も昔は誤解していましたから‘私は罪人ですって言うの嫌だな’と思っていました。しかし、‘私は罪人だ’そう自覚できると、人生の可能性が広がるんだなと思っています。
 
19 : 19 : 56 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
想像力
2007 / 01 / 04 ( Thu )
 釜ヶ崎の‘医療パトロール(野宿している方に体調を崩していないか、怪我をしていないか問いかけたり、必要なら救急車を手配したり、毛布やカイロを渡したりします。)’に参加した折、何気なく手袋をしていったため
「それがどういうことか分かる?」
とリーダーに問いかけられました。
「相手に触れる、毛布を渡す、そんな時手袋してたら相手はどんな気持ちになると思う?直接触れたくないとかガードされてると思うんじゃないかしら?想像力は大事よ。」
言われるまでもなくそうです。配慮も想像力も鈍っていました。
‘これをするとはどういうことなのか’
‘これをしないというのはどういうことなのか’
 そういうことをいつも考えて生きてきたつもりだったのですが、いつの間にか平和ボケしていたようです。もっともっと敏感な人間になりたいなと深く反省させられました。
 もちろん、素手での触れ合いと言っても、毛糸のセーターにジャケットをはおり、夜は家の中で布団に包まって暖かく寝られる人間にとって、欺瞞のような、偽善のような匂いはします。野宿を余儀なくされている方々に対して決定的に寄り添うことは出来ないし、出来ることも声をかけたり毛布を配ることだけで、他にはそれ以外に何も出来ないのです。しかも、ほんの数日間釜ヶ崎に留まっている間にしか過ぎません。まったく自分勝手な自己満足のような関わりに過ぎないのです。確かにそのことが心の奥に鉛の塊のようにありました。しかし、
‘手袋ではなくせめて素手でかかわろう’
‘せめて出来る配慮はしよう’
そういうちょっとした思考が出来なかったのです。
 想像力を働かせることを今年の課題の一つにします。
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釜ケ崎越冬セミナー
2007 / 01 / 03 ( Wed )
 あけましておめでとうございます。
 年末から長男(16歳)、長女(14歳)と一緒に大阪市西成区の釜ケ崎に行っていましたので、ブログが更新できず申し訳ありませんでした。 以前は時々‘夜回り’や‘越冬’に参加させて頂いていたのですが、ここ近年は牧師を一時退職したり、失業したりと生活に追われていたこともあり、殆どかかわっていませんでした。そんな私がどうしてまた、釜ヶ崎へ行ったのかと申しますと、釜ケ崎キリスト教協友会の主催する‘釜ヶ崎越冬セミナー’に子供たちを参加させたかったからです。ご存知のように釜ヶ崎にはたくさんの課題が山積されたままです。しかも、その課題というのは、日本の抱えている問題そのものが表出しているのです。学ばせていただくばかりで、大変申し訳ないのですが、私はそういう釜ヶ崎に触れることで多くのものを学ばせていただきました。最近子供たちがそろそろ親から自立する年頃になってきたのを感じてきました。彼らに、これから1人の人として、何をどう捉え、どのように生きていくか考ていくための学びとして、釜ヶ崎に触れて欲しかったのです。
 多くの出会いと学びの中で子供たちもあれこれと色々考え始めているようです。協友会の皆様、お話を聞かせてくださった皆様、一緒に学ばせていただいたセミナー参加者の皆様、本当にありがとうございました。
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