2007年01月11日 23:54
年賀状を見ているといろんな人の顔が浮かんできます。もう、連絡も取れない方、お亡くなりになられた方も含めてです。それで様々な事を思い出したりします。今日ふと祈りに関連して出会った方々のことを思い出しました。
祈りは‘神様との会話’と言われます。「なるほど」と思われる方がいらっしゃるかと思えば「一人でぶつぶつ喋っているだけなのに?」と怪訝そうに受け取られる方もいらっしゃいます。私ももともと後者でした。しかし、三つの出会いで考え方が随分変化してきました。
一つ目は学生時代「出世したい」とか「事業に成功したい」という祈りをしている人の話を聞いて‘それはおかしいだろう’と思い、親しかった牧師に「祈って良い事柄とそうでない祈りは、厳密にどう区別したら良いのでしょうか?」と問うてみたのです。‘少なくとも他人の誹謗中傷や呪いなどは絶対駄目だろうから、問題はどこで線引きするかだろうなあ’と考えていたのですが、その牧師は平然と「何でも祈って良いよ」と言うのです。「えっ、ちょっと待ってください。それはおかしいですよ。それなら誰かをおとしめてほしいとかその他どんなにひどい祈りもOKになってしまうじゃないですか」と反論しても「何でも祈って良い」と言うのです。「ただし」そう言ってこんなことを付け加えられました。「神様には何でも祈って良いのです。ただし、大切な事が一つあります。繰り返し祈り続けなければならないということです。」。よくよく話を聞いてみると‘人と言うのはどんなに真面目に自己吟味したとしても自己中心的な存在にすぎないから、吟味したはずの祈りにも自分勝手さが入り込んでいくもので、結局祈るべきでないような祈りも祈ってしまうのだ’と言うのです。更に‘でも、神様はそんな私たちの罪(的外れ)を重々承知されているから大丈夫なんです。だからこそ、開き直ってどんなことでも神様に祈り、祈り続けてみることが大切なのではないか。しつこく祈り続けていく中で、自分でも嫌になってくるぐらい祈り続けていく中で本当に祈るべき祈りが神様から示されていきます。そして的外れな祈りは自然に削り落とされていきますよ。しかも、自分が願い祈っている課題に対して自分は何をどうすべきか、すべきでないかなども具体的に示されていきます。神様はちゃんと聴いて下さっているし語って下さるからね。’
二つ目は神学生時代に高森草庵という修道院での生活です。わずか数日間でしたが、様々な事を学びました。その一つは、早朝や夜のミサはもちろん、日中の労働(農作業など)、食事の準備片付け、読書の時間、聖書の学びなど、その全てが祈りの時間だと感じたことです。聖書には「絶えず祈りなさい」という言葉がありますが、指を組んで目をつぶって頭を垂れて一人でぶつぶつ祈る事だけを祈りだと言うのなら、‘絶えず’なんて全くもって不可能です。生活の全ての時間、神様と語り合い続けることが祈りの基本ではないかと思うようになりました。
三つ目は、これも神学生の時代のことですが、‘祈りの人’と言われていた宣教師にあるときこんな質問してみたのです。「先生、祈りの課題を祈り続けるべき事だと先生も言われますし、私もそう思っています。でも、祈り続けると言っても、一体どれくらいの期間なのでしょうか?」ここで、私は格好を付けたかったのか「50年くらいですか?」と出来もしないことを生意気に付け足したのです。その宣教師の先生は顔色一つ変えず平然とこう答えられました。私はその言葉にものすごくびっくりしました。「祈りの課題が適うまでです」。ほんとうに参りました。
年頭にあたり、祈りの姿勢を崩さないようにしなければならないと思いました。
祈りは‘神様との会話’と言われます。「なるほど」と思われる方がいらっしゃるかと思えば「一人でぶつぶつ喋っているだけなのに?」と怪訝そうに受け取られる方もいらっしゃいます。私ももともと後者でした。しかし、三つの出会いで考え方が随分変化してきました。
一つ目は学生時代「出世したい」とか「事業に成功したい」という祈りをしている人の話を聞いて‘それはおかしいだろう’と思い、親しかった牧師に「祈って良い事柄とそうでない祈りは、厳密にどう区別したら良いのでしょうか?」と問うてみたのです。‘少なくとも他人の誹謗中傷や呪いなどは絶対駄目だろうから、問題はどこで線引きするかだろうなあ’と考えていたのですが、その牧師は平然と「何でも祈って良いよ」と言うのです。「えっ、ちょっと待ってください。それはおかしいですよ。それなら誰かをおとしめてほしいとかその他どんなにひどい祈りもOKになってしまうじゃないですか」と反論しても「何でも祈って良い」と言うのです。「ただし」そう言ってこんなことを付け加えられました。「神様には何でも祈って良いのです。ただし、大切な事が一つあります。繰り返し祈り続けなければならないということです。」。よくよく話を聞いてみると‘人と言うのはどんなに真面目に自己吟味したとしても自己中心的な存在にすぎないから、吟味したはずの祈りにも自分勝手さが入り込んでいくもので、結局祈るべきでないような祈りも祈ってしまうのだ’と言うのです。更に‘でも、神様はそんな私たちの罪(的外れ)を重々承知されているから大丈夫なんです。だからこそ、開き直ってどんなことでも神様に祈り、祈り続けてみることが大切なのではないか。しつこく祈り続けていく中で、自分でも嫌になってくるぐらい祈り続けていく中で本当に祈るべき祈りが神様から示されていきます。そして的外れな祈りは自然に削り落とされていきますよ。しかも、自分が願い祈っている課題に対して自分は何をどうすべきか、すべきでないかなども具体的に示されていきます。神様はちゃんと聴いて下さっているし語って下さるからね。’
二つ目は神学生時代に高森草庵という修道院での生活です。わずか数日間でしたが、様々な事を学びました。その一つは、早朝や夜のミサはもちろん、日中の労働(農作業など)、食事の準備片付け、読書の時間、聖書の学びなど、その全てが祈りの時間だと感じたことです。聖書には「絶えず祈りなさい」という言葉がありますが、指を組んで目をつぶって頭を垂れて一人でぶつぶつ祈る事だけを祈りだと言うのなら、‘絶えず’なんて全くもって不可能です。生活の全ての時間、神様と語り合い続けることが祈りの基本ではないかと思うようになりました。
三つ目は、これも神学生の時代のことですが、‘祈りの人’と言われていた宣教師にあるときこんな質問してみたのです。「先生、祈りの課題を祈り続けるべき事だと先生も言われますし、私もそう思っています。でも、祈り続けると言っても、一体どれくらいの期間なのでしょうか?」ここで、私は格好を付けたかったのか「50年くらいですか?」と出来もしないことを生意気に付け足したのです。その宣教師の先生は顔色一つ変えず平然とこう答えられました。私はその言葉にものすごくびっくりしました。「祈りの課題が適うまでです」。ほんとうに参りました。
年頭にあたり、祈りの姿勢を崩さないようにしなければならないと思いました。





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