2007年01月16日 22:05
(建物としての)内海教会で一番気に入っているところは聖壇が無いことです。教会によっては舞台やステージのように1メートル以上高くなっていたり、そうでなくても数10センチは高くなっているものです。ところが、内海教会には壇そのものが(仕切りも含めて)無く、全くフラットなのです。皆同じ高さで居られるところが気に入っています。もちろん牧師は礼拝中立っているので、座っている皆さんと目線は同じではないかもしれませんが、全ての人は神様の前で等しく平等であることを表しているようで、気持ち的にすっきりするのです。そういえば教会建築の歴史などを調べた事がありますが、説教壇が会衆席から数メートルも高いところに設置された時代もありましたし、説教者が大きく見えるように説教卓そのものを意図的に小さく作ったという時代もありました。少なくともプロテスタント教会は万民祭司の筈ですから、牧師は偉くもなんともありませんし、立派に見せる必要もないはずです。更に礼拝学的には礼拝の中心は説教ではありませんから、ことさら説教壇や説教卓、説教者を強調するのも理に適っていません。そんな訳で、教会の役員さんに「説教壇の無いのが気に入っているんですよ」と言いましたら、「昔はあったんですけれども、年寄りが司会するときに‘しんどい’からある時取っ払ったんですよ」と答えてくださいました。それを聞いてますます「良いなぁ」と思うようになりました。だって、人は本来神様の前で等しい存在で同じ高さにあるはずなのに、愚かにも上昇志向をもって「人より少しでも上に居たい」「上がりたい」と考えてしまいやすい訳です。‘上がる’なんて、そもそも‘しんどい’ことなのに。‘理解する’が英語で‘understanding’というのも意味深長な気がします。神様自体が低く降って私たちのもとへ来てくださる存在であることを聖書はずっと証ししている訳ですから、私たち人間が上へ上がろうなんて全くもってへんな話しです。





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