2007年01月21日 00:16
商品がメインとしか思えない本がよく書店に並んでいます。最近ロボなんとかというシリーズが創刊されたようで、テレビなどで盛んに宣伝しています。毎週か隔週なのか知りませんが、毎号組み立てロボットのパーツが付いていて、全部買うと二足歩行のロボットが完成し、コンピューターでのプログラミングや操縦も出来るという優れもののようです。しかし、一部1,980円もする本が何号まで続くか分からない上に、一旦買い始めてしまうと途中でやめられませんから(完成しませんから)かなりのリスクがあるような気がします。(でも、秋葉原や日本橋に行けば同じような二足歩行のロボットをパーツでも完成品でも10万円程度で入手できますから、恐らく50号程度まで発刊されるのではと思います。)
話がなかなか本題に入れませんが、私の記憶では1980年代後半に「レンジにおまかせ」というのがこの手の走りで(次々に発行される本をストックして最終的に完成させる)、それには品物が付かず純粋に本を完成させるタイプでしたが、その後、品物付きのものが始まったと記憶しています。しかし、20年も同じような方式で品を変えて次々に発行されているわけですからそれなりの数が売れているのだと思います。かく言う私もかつて‘石’のシリーズを子供にせがまれて(途中まで)買っていたことがあります。
買ってみたことがあるだけに‘途中で感じる不安感’を皆はどう思っているのか気になります。お金に余裕があって、延々と同じようなものをコレクションしたいとか、今回のロボットのように一つのものを完成させるタイプで言えば完成にいつまでかかるのか分からなくても気にならない人でなければしんどいように思います。最後まで買い続けられるかも不安です。そんなこともあり、買い始めた誰もが‘嬉しい’とか‘わくわく感’より‘イライラ感’や‘不安感’の方が勝っているのではないかと思ってしまいます。
ここまで書いてきてなんですが、こういうタイプの雑誌の販売方式を批判するつもりはまったくありません。こういう方式だから普通買わないような人が買えたり、新しい文化に触れられる訳ですからかえって良いと思います。
私が少し思ったのは、個人差はあるものの途中にほんの少しの不安感があると言うことです。そして、これに関連して、教会で行われている聖書の学びにも同様のものがあるような気がしたのです。教会によって呼び名は違いますが、‘聖書研究会’や‘聖書を読む会’といったもの、婦人会や壮年会、青年会などで行われる同様の‘聖書の学び’、そして何より日曜日の礼拝での‘説教’などにも似たようなことが言えるような気がするのです。いや、むしろ、もっと深い不安感が参加者にはあるのではないかとさえ思うのです。
学校や教養講座、自動車学校などを考えていただければ分かりやすいのですが、きちんとしたカリキュラムがあって、それが公表され、予定に沿って講義や授業が行われていますから、自分が今どこまで課題をこなしているのか、どこまで何を理解しているのかがはっきりしています。ところが、教会の聖書の学びにカリキュラムなど存在しません。存在していても、ぺリコーぺとよばれる聖書日課であったり、年間予定に過ぎません。聖書の、或いはキリスト教の教えのどこまでを自分が理解しているかなど誰にも把握できていないのです。実際のところ牧師でさえどこまで聖書やキリスト教の教えを理解しているか分からないと思うのです。しかし、あまりこのことを神経質に考えすぎるのもどうかと思います。
実はそれほど聖書やキリスト教の教えは奥が深いということです。ですから、「まだまだ良く分からないんです」と言っている人の方が「もうキリスト教のことは大体分かったから大丈夫」と考えている人より健全かもしれません。とは言え、「不安感を抱え続けるのは仕方のないこと」と言うのもおかしな話ですから、本当に中心となる大切なポイントだけでも明確にすべきだと思うのですが、人により、教会により、教派により微妙に違っているから厄介なのです。
「不安は健全の証し。一緒に考えたり、悩んだりしましょう。」
だからこそお互いに人生も深まりますよ。
話がなかなか本題に入れませんが、私の記憶では1980年代後半に「レンジにおまかせ」というのがこの手の走りで(次々に発行される本をストックして最終的に完成させる)、それには品物が付かず純粋に本を完成させるタイプでしたが、その後、品物付きのものが始まったと記憶しています。しかし、20年も同じような方式で品を変えて次々に発行されているわけですからそれなりの数が売れているのだと思います。かく言う私もかつて‘石’のシリーズを子供にせがまれて(途中まで)買っていたことがあります。
買ってみたことがあるだけに‘途中で感じる不安感’を皆はどう思っているのか気になります。お金に余裕があって、延々と同じようなものをコレクションしたいとか、今回のロボットのように一つのものを完成させるタイプで言えば完成にいつまでかかるのか分からなくても気にならない人でなければしんどいように思います。最後まで買い続けられるかも不安です。そんなこともあり、買い始めた誰もが‘嬉しい’とか‘わくわく感’より‘イライラ感’や‘不安感’の方が勝っているのではないかと思ってしまいます。
ここまで書いてきてなんですが、こういうタイプの雑誌の販売方式を批判するつもりはまったくありません。こういう方式だから普通買わないような人が買えたり、新しい文化に触れられる訳ですからかえって良いと思います。
私が少し思ったのは、個人差はあるものの途中にほんの少しの不安感があると言うことです。そして、これに関連して、教会で行われている聖書の学びにも同様のものがあるような気がしたのです。教会によって呼び名は違いますが、‘聖書研究会’や‘聖書を読む会’といったもの、婦人会や壮年会、青年会などで行われる同様の‘聖書の学び’、そして何より日曜日の礼拝での‘説教’などにも似たようなことが言えるような気がするのです。いや、むしろ、もっと深い不安感が参加者にはあるのではないかとさえ思うのです。
学校や教養講座、自動車学校などを考えていただければ分かりやすいのですが、きちんとしたカリキュラムがあって、それが公表され、予定に沿って講義や授業が行われていますから、自分が今どこまで課題をこなしているのか、どこまで何を理解しているのかがはっきりしています。ところが、教会の聖書の学びにカリキュラムなど存在しません。存在していても、ぺリコーぺとよばれる聖書日課であったり、年間予定に過ぎません。聖書の、或いはキリスト教の教えのどこまでを自分が理解しているかなど誰にも把握できていないのです。実際のところ牧師でさえどこまで聖書やキリスト教の教えを理解しているか分からないと思うのです。しかし、あまりこのことを神経質に考えすぎるのもどうかと思います。
実はそれほど聖書やキリスト教の教えは奥が深いということです。ですから、「まだまだ良く分からないんです」と言っている人の方が「もうキリスト教のことは大体分かったから大丈夫」と考えている人より健全かもしれません。とは言え、「不安感を抱え続けるのは仕方のないこと」と言うのもおかしな話ですから、本当に中心となる大切なポイントだけでも明確にすべきだと思うのですが、人により、教会により、教派により微妙に違っているから厄介なのです。
「不安は健全の証し。一緒に考えたり、悩んだりしましょう。」
だからこそお互いに人生も深まりますよ。





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