2007年02月21日 12:56
本日は‘灰の水曜日(アッシュ・ウエンズデー)’です。イースター(復活日)の46日前にあたり、今日から‘受難節’が始まります。聖書で‘40’は‘苦難’や‘試練’を表す数字とされていますから、この受難説も40日間となっているのです。えっ、46日じゃないかですって。実は間にある日曜日は除外されるので6回ある日曜日の数を差し引いて計算するためなのです。この期節の典礼色は紫で、礼拝から「ハレルヤ」の歌声はなくなり、讃美歌をはじめとする礼拝音楽は全て静かな地味な曲となります。昨日も書きましたが、この受難節の期間というのは‘真剣な悔い改めと真面目な瞑想の時’となります。
‘灰の水曜日’という名称は、中世の教会で、信心深い人々の額に灰で十字架のしるしをつけた習慣にあります。前年の棕櫚主日(受難主日とも言うイースターの一週間前の日曜日)で使われた棕櫚(しゅろ)の葉を焼いて作った灰を保存しておいてこの日に使うのです。伝統的な教会では今でもこの‘灰の水曜日’に特別な礼拝を行います。内海教会では行いませんが、私は以前何度かしたことがあります。感慨深いのは、灰で額に十字を記すとき司式者は一人ひとりに向かって「あなたはちりであるから、ちりに帰ることを覚えなさい」と語りかけるところです。灰は地にあるもの、はかなさの象徴であり、また、聖書では悔い改めの象徴でもあります。この世でどんなに素晴らしいものを手に入れてもやがてそれらは夢のように消え去ります。人は必ず死を迎えなければならないからです。その時残されるのはただ一握の灰に過ぎません。
灰の水曜日はそのような厳粛な死の事実に私たちの思いを誘います。人は生まれた瞬間から‘死に向かう存在’であり、私たちの人生は、どのように死ぬかを学びつつ真実生きるのだと思います。
しかし、一番大切なことは、イエス・キリストの苦しみと死の意味について深く考えるということに尽きます。イエス・キリストがあれほど苦しんだのはどうしてなのか。全て私たち人間の罪のせいではなかったのか。私たちはこの期節、襟を正して十字架を見上げ、自らの罪を悔いるとともに、それをも赦して救われる神様の恵み深さを、受難の主の中に見つけ出せるなら幸いだと思います。
‘灰の水曜日’という名称は、中世の教会で、信心深い人々の額に灰で十字架のしるしをつけた習慣にあります。前年の棕櫚主日(受難主日とも言うイースターの一週間前の日曜日)で使われた棕櫚(しゅろ)の葉を焼いて作った灰を保存しておいてこの日に使うのです。伝統的な教会では今でもこの‘灰の水曜日’に特別な礼拝を行います。内海教会では行いませんが、私は以前何度かしたことがあります。感慨深いのは、灰で額に十字を記すとき司式者は一人ひとりに向かって「あなたはちりであるから、ちりに帰ることを覚えなさい」と語りかけるところです。灰は地にあるもの、はかなさの象徴であり、また、聖書では悔い改めの象徴でもあります。この世でどんなに素晴らしいものを手に入れてもやがてそれらは夢のように消え去ります。人は必ず死を迎えなければならないからです。その時残されるのはただ一握の灰に過ぎません。
灰の水曜日はそのような厳粛な死の事実に私たちの思いを誘います。人は生まれた瞬間から‘死に向かう存在’であり、私たちの人生は、どのように死ぬかを学びつつ真実生きるのだと思います。
しかし、一番大切なことは、イエス・キリストの苦しみと死の意味について深く考えるということに尽きます。イエス・キリストがあれほど苦しんだのはどうしてなのか。全て私たち人間の罪のせいではなかったのか。私たちはこの期節、襟を正して十字架を見上げ、自らの罪を悔いるとともに、それをも赦して救われる神様の恵み深さを、受難の主の中に見つけ出せるなら幸いだと思います。





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