信仰

2007年07月16日 09:00

 <7月8日「身近な神様」へのコメントへのコメント>

 新約聖書はギリシャ語で書かれていて、“信仰”と訳されているのは“ピスティス”という言葉ですが、これはそもそも“真実”という意味の言葉です。
 真実の在り方こそ信仰だということなのでしょう。
 では「真実とは何か」、「真実の在り方とはどういうことか」となるわけですが、「真実=神様の在り方」と言えます。「では私たち人間に神様の在り方を会得することが出来るのか」、「そんなことが出来るのか」という事になります。
 しかし、神様の本質的に最も重要であり、神様の在り方の真髄とも言える姿勢は“悔い改め”と日本語に訳されている“メタノイア”の姿勢です。これは「痛みや苦しみの在る所に視座を降ろし、低くへりくだる姿勢」のことです。
 確かにイエス・キリストの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ福音書1章15節)」でした。
信じてから悔い改めるのではなく、悔い改めて(低くへりくだることで)福音を信じられるようになる、つまり信仰を持つようになるということが語られています。
 いわゆる“信仰・信心”と、キリスト教で言う“信仰(ピスティス)”とは、少しニュアンスが違うようです。
 聖書で言う“永遠の命”に置き換えてもいいのかもしれません。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ福音書17章3節)」

 キリスト教の信仰というのはいつまでたっても悔い改め(メタノイア)しきれない自己であることを認識し悔い改めつつ、 低く身をかがめて行かれるイエス・キリストの後ろを付いていくことであろうと思います。加藤常昭師の説教集「主イエスの背を見つめて」にあるように、主イエスに従って行くとは主イエスの背を見つめながら歩むと言うことであり、その主イエスの背とは鞭打たれ傷ついた背であり、私たちの罪を贖うために重い十字架を背負われた背中であるのです。


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