2007年11月07日 16:42
友人の牧師がある時ある人に突然こう聞かれたのだそうです。
「“鰯の頭も信心から”と言うけれど、“鰯の頭”も信仰の対象になるのかね。」
「ならないとは言えませんね。なる場合もあるんじゃないでしょうか」
と答えると、
「じゃあ、俺はキリスト教より鰯の頭で行く。教会に毎週来なくても良いし、献金だってしなくて良い訳じゃないか」
と言い返されたとのこと。
ところが、この友人負けていなくて、
「鰯の頭を信仰するのは良い考えかもしれませんが、あなたは鰯の頭に命が賭けられますか。鰯の頭に命を賭けられるのなら、それも良いかもしれませんね。」
と言い返したら、黙って帰って行かれたということでした。
鰯を信心すると言うことも凄いけど、命を懸けられるかという切り返し方も凄いなぁと思いました。
どちらも、私にはとても考えられないし言えない言葉です。
確かに命を懸けるつもりで牧師をしていると言えますが、人は弱いということを私は痛いほどよく知っています。
私など弱くて弱くて情けないくらいです。
イエス・キリストの一番弟子のペトロという人は、
「たとえ、イエス様と一緒に死なねばならなくなったとしても構いません。」
と言っていましたが(つまり一緒に死んでもいいと勇ましいことを言っていたのに)、イエス様が逮捕され連行された時(この後、十字架で殺される)、彼はイエス・キリストを見捨てて逃げ出してしまいました。
最初彼は戦おうとしたのですが、イエス・キリストに戦うことを咎められてしまったのは予想外だったようです。死ぬ機会・死に場所を失ってしまったといっていいでしょう。
あのままだったら(止められなかったら)、彼は勇ましく死んで行ったのだと思いますが・・。
人は誰しも、興奮状態の時や気合がみなぎっている時なら、命がけの行動ができるような気がしますが、その機会を失ってしまうと、その気持ちが崩れてしまうものです。
そんなことを考えると、軽々しく“命を懸ける”とか言えないのです。
そんな弱い自分だからこそ、最後は神様に委ねて行くしかないのです。ただ、そんな弱い自分、神様に信頼し最後は委ねようとするしかない、そんな自分を神様は見捨てられはしないだろうと、そんなことを考えたりするのです。
そんな信心です。
「“鰯の頭も信心から”と言うけれど、“鰯の頭”も信仰の対象になるのかね。」
「ならないとは言えませんね。なる場合もあるんじゃないでしょうか」
と答えると、
「じゃあ、俺はキリスト教より鰯の頭で行く。教会に毎週来なくても良いし、献金だってしなくて良い訳じゃないか」
と言い返されたとのこと。
ところが、この友人負けていなくて、
「鰯の頭を信仰するのは良い考えかもしれませんが、あなたは鰯の頭に命が賭けられますか。鰯の頭に命を賭けられるのなら、それも良いかもしれませんね。」
と言い返したら、黙って帰って行かれたということでした。
鰯を信心すると言うことも凄いけど、命を懸けられるかという切り返し方も凄いなぁと思いました。
どちらも、私にはとても考えられないし言えない言葉です。
確かに命を懸けるつもりで牧師をしていると言えますが、人は弱いということを私は痛いほどよく知っています。
私など弱くて弱くて情けないくらいです。
イエス・キリストの一番弟子のペトロという人は、
「たとえ、イエス様と一緒に死なねばならなくなったとしても構いません。」
と言っていましたが(つまり一緒に死んでもいいと勇ましいことを言っていたのに)、イエス様が逮捕され連行された時(この後、十字架で殺される)、彼はイエス・キリストを見捨てて逃げ出してしまいました。
最初彼は戦おうとしたのですが、イエス・キリストに戦うことを咎められてしまったのは予想外だったようです。死ぬ機会・死に場所を失ってしまったといっていいでしょう。
あのままだったら(止められなかったら)、彼は勇ましく死んで行ったのだと思いますが・・。
人は誰しも、興奮状態の時や気合がみなぎっている時なら、命がけの行動ができるような気がしますが、その機会を失ってしまうと、その気持ちが崩れてしまうものです。
そんなことを考えると、軽々しく“命を懸ける”とか言えないのです。
そんな弱い自分だからこそ、最後は神様に委ねて行くしかないのです。ただ、そんな弱い自分、神様に信頼し最後は委ねようとするしかない、そんな自分を神様は見捨てられはしないだろうと、そんなことを考えたりするのです。
そんな信心です。





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