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おっとっと

2008年06月29日
あっとっと

 三男(2歳)と仲良く“おっとっと”を食べていた次男(4歳)が変な形のものを食べようとしていました。
 見せてもらうと写真のように“潜水艦”型の“おっとっと”ではないですか。
 珍しい。
 時々入っているというスペシャルに違いないと、写真を撮らせてもらいました。
 データを保存しながら
「すごい珍しいのが入ってて良かったね~」
などと言っている間も無く、次男は何事もなかったかのようにパクリと食べてしまいました。
 子供の良さは“市場の原理で生きていない事だなぁ”と改めて実感しました。
 私が写真を撮っている間待たされているのは嫌だったんだろうな・・。
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温泉といえば

2008年06月28日
 小豆島に来る前は、愛媛県の松山市に12年間いました。しかも、(前にも言いましたが)後半は道後温泉の近くに住んでいたので(徒歩数分)、土曜日の朝など長男と何度か行ったこともありました。
 結構定連のお年寄りが多く、私たちなど本当にたまにしか行かないので、観光客とよく間違えられしかも、「ここは道後温泉本館ではないよ」と教えられてしまうことしばしばでした。
 そういうのも、私たちも知ったかぶりで、地元の通たちがそうするように、観光パンフレットなどでお馴染みの“道後温泉本館”ではなく、道後商店街を少し行ったところの“椿の湯”に行っていたのです。もちろん、同じ源泉です。
 道後温泉は泉質が本当に良いので、朝風呂など最高の贅沢です。
 足湯、手湯がいくつもあるホテル街も当然近かったので、それもタオル持参で観光客のように回ってみることもありました。
 そんなことを言って、聞く人を羨ましがらせて楽しんでいるのですが、実はそういうことは12年間で数回しかないのでした・・。
 やはり近くにあると、ありがたみを感じないからか、それともいつでもいけると思ってしまうからなのか、あまり行かないものですね。
 そういえば、小豆島にもオリーブ公園にサンオリーブ温泉がありますし、土庄のマルナカにもオリーブ温泉があるのですが、いまだ一回も行った事がありません。
 香川豊島教会の方々から「土庄に行ったら、オリーブ温泉に入ります。良い温泉ですよ。」と言われることがありますが、残念ながら「いつか行ってみようか」止まりの気持ちにしかなれません。
 もしかすると、大自然の中の露天風呂が好きなのかもしれません。
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意味を見つける

2008年06月27日
 時々、自己嫌悪に落ち込むときがありました。
 たいていの場合は失敗やしんどいことが続いたときです。
「どうしてこうなのかな」
という自問自答に始まり、いつの間にか
「ああしなければ良かった・・。こうした方が良かった・・。」
となり、
「自分のこういう点がいけなかったみたいだ。」
と自己嫌悪のスパイラルに落ち込んでしまうことがあったのです。
 しかし、自分の欠点を列挙したところで問題が解決するはずも無く、むしろ、可能性の扉さえ閉じてしまいかねなくなってしまいます。
 やはり、顔の前に目がある事からも分かるように、後ろではなく前を見ないといけないようです。
 そこでいろいろと考えてみると、自分の欠点と言っても、実は長所と表裏一体なのではないかと思うのです。
 たとえば(あくまでたとえばですよ)“口数が多い”のは“言語能力が豊か”だということですし、“神経質”だって“几帳面”だとも言えます。
 “少女パレアナ”の幸せ探しではないですが、どんなところにも良さや幸いがあるはずです。
 最近私は、ひとつの事柄をどう捉えるかで人生は大きく変わってくるものだと実感をもって思うようになりました。
 ある事柄そのもので人の幸不幸が決まるのではなく、そこからどんな意味を見出すかが大切なのだということです。
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露天風呂の日

2008年06月26日
 1987年は神学大学4年を留年した年なので何となく覚えていますが、21年前の今日は“露天風呂の日”が制定された日です。露天風呂の良さを広めようと岡山県の真庭で(6.26の語呂あわせ)制定されたようですが、今では全国各地の温泉を擁する市町村や観光協会などが普及に努めているようです。
 そういえば、この年、仲良しの友人三人で伊豆まで温泉目当てに軽自動車でドライブしたことを思い出します。私の愛車は昭和47年型のホンダライフで排気量は360cc。エアコンなど無いのはもちろん、取り付けることさえ出来ない代物でした。坂道になると60km/hも出ない車ですから、ラグビー部の巨漢(私は普通でしたが)3人を乗せて走る愛車は悲鳴をあげていました。
 お金も無いので、高速は一切使わず東京~伊豆を往復し、宿泊もテントでの野宿という過酷さ。それでも、明け方の富士山の美しさや、修善寺の風情、伊豆の大自然など十分満喫したのを覚えています。
 名前も場所も忘れましたが、ループ橋の近くにあったいろんな種類の温泉のある宿は面白いところでした(もちろん宿泊無しで、通りすがりに温泉に入っただけ)。湯船として大きな壷をいくつも並べてあったり、温泉のプールがあったり、洞窟の中が温泉になっていたりと盛り沢山な上に、それらは渓谷沿いにあるというスケールの大きさ。しかも、滝まであるのです。しかし、まるで庭園か遊歩道のようなので、観光客が散歩してきたりするのがたまらなく恥ずかしかったものです。こちらは裸ですから・・。
 以前住んでいた松山にも道後温泉など温泉がいくつもありましたが、残念ながら露天風呂はありませんでした。何処かまた、風情のある露天風呂に入りに行きたいなぁと思う6月26日露天風呂の日でした。
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島に帰れない事態も想定しておくべきか

2008年06月25日
 昨日は四国教区の常置委員会のため、松山に行って来ました。
 前回、高速バスで行ったところフェリーとの連絡の悪さや、最終便に乗り遅れそうになったりと散々だったので、今回はバイク(スクーター)で行くことにしました。
 松山行きの高速バスは草壁港からのフェリーが高松に到着した時間に出発するダイヤとなっており、必ず高松で1時間待ちとなるのです。ちなみに高松港と高松駅は徒歩数分の距離です。
 バスでの帰りは小豆島行きの最終便午後8時30分に間に合うようにギリギリの便にしても、会議の途中で席を立たねばなりません。しかも、その便は高松駅午後8時18分着で、12分しか余裕が無い上にバスという性格上どうしても遅れるのです。前回は午後8時25分に高松駅前のバスターミナルに到着したので、船上で食べようと思っていた夕食を仕入れる時間さえ無くただひたすらダッシュするしかありませんでした。帰宅は港から徒歩と言うこともあり、午後10時となります。
 それで今回はバスではなくバイクにしたのです。
 周りから見ると、元気そうだとか、楽しそうだというように見えるかもしれませんが、結構しんどいものです。車で出かけられるのならそれがベストですが、フェリーに車を載せると往復だけで1万円を越えてしまうので、そんな非常識なことは出来ません。したがってバイクという選択肢しか残らないのです。
 昨日の会議は午後6時までの予定でしたから、高松港まで2時間ちょっとの計算から言うと余裕で安全圏内です。ところが、予定は未定にして決定にあらず。
 審議が長引き10分の延長。・・・。ガソリンを入れなくちゃいけないけど、何とかセーフかなと思っていましたが、再度“5分の延長”という議長の声・・。
 む、無理です。アウトです。島に帰れなくなってしまいます。
 ・・・で、結局会議の途中でまたしても退席する羽目に・・。
 途中、サービスエリアで給油し、軽食をとる(数分で流し込む)タイムロスが10分。で、結局12分前に高松港到着。
 次回からは万一のことも考えて心臓の薬を持参しておく必要があるようです(毎日朝晩飲まなければならないのです・・)。
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打てば響く

2008年06月23日
 子供の頃、耳にタコが出来るほど母親から言われたのは
「打てば響く人間になりなさい!」
でした。
 小さいときはその意味さえ分かりませんでしたし、母も“こうこうこういう意味”だ、とは言ってくれませんでした。
 それで、心にはしっかり残っているものの、ぼやっとした言葉で、“結局どういう意味かな”と、ずっと考えなければならない言葉でした。
 大人になってから何となくこういう意味かなと思うのは“人の言う事が実感をもって分かる人間になれ”ということだったのではないかということです。
 “人の話を言葉(頭)では理解しても、心で感じられない人間になるな”ということです。
 痛みがあるだろうということが分かっても、その辛さは本人しか分からないものです。人の痛みが“ある”事さえ感じられないのは論外ですが、その痛みをどのように受け止められるようになるのか、それが人生の重大な課題だと、言われていたような気がします。
 全く理解するのは不可能ですが、自分自身の痛みを伴う感情体験から類推する敏感さが要求されるということでしょうか。
 まだまだ、人生の課題は続きます。
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天井に敗北

2008年06月22日
天井

 昨夜遅くトイレに行ったとき、教会の台所天井が一部外れかかっているのを発見しました。
 昨日は遅かったのと、今日は日曜日で午前中礼拝があったので、午後過ぎてから修理を始めました。
 見たところ、少し落ち込んでいるだけなので、持ち上げて釘で打てば完了といういたって簡単な作業のようでした。
 ところが、少し触ってみると細かい土が落ちてきます。掃除機で吸ってみるとガラガラ、ジャラジャラと石ころのように固まったものから、細かい粉のようなものまで赤土のようなものが大量に載っています。
 天井の板は厚さ3mmほどの心細いベニヤ板ですが、この上に大量の土が乗っかっているのです。 おそらく長い年月で屋根のほうから落ちてきた土や埃が堆積し、昨夜とうとうその重さに耐え切れなくなって垂れ下がってしまったのだということにやっと気付きました。
 掃除機はあっという間に満杯になるため、何度も何度もゴミを取り出しながらの作業。しかも、頭から粉のような土をかぶりながらです・・。
 おまけに土は粘土のように細かいものが多く、掃除機の排気口から煙のように吹き出す始末・・。
 しかし、隙間から出来るだけ土を取り除いたものの、持ち上げてもベニヤ板は元には戻らないのでした。完全に変形してしまったようです。
 せめて応急処置だけでもと途中から計画変更したものの、それさえも頓挫です。
 仕方なく、いつもお世話になっている大工さんに連絡して修理して頂くことにしました。
 というのも、土が堆積しているのはこの一枚のベニヤ板だけではなく、六枚全部のはずだということと、天井を全部取り替えなければならないので、素人の出る幕ではないという判断でした。
 いままで、いろんな大工仕事をこなしてきましたから、少しばかりは腕に自信もあったのですが、天井はちょっと無理のようです・・。
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カニに驚く季節

2008年06月21日
 毎年、夏前のこの時期になると“カニ”に驚かされます。
 とは言っても、お中元でカニを頂く訳ではなく、そこかしこを這い回っているカニなのです。
 武芸者のように注意を払って隙を見せないように生きている訳でもありませんから、突然ガサゴソと動き出すカニにはとても驚いてしまうのです。
 買い物から帰って荷物を抱えたまま玄関の鍵を開けようとしている時や、家から出てすぐとか、バイクに乗ろうとしている時とか、急に足元で動き出したりされるとびっくりしてしまうのです。
 本庄川という川がすぐ近くを流れているせいでしょうけれども、とにかく毎年今頃は庭のあちこちや植え込みなどでガサゴソしています。
 先週など草抜きした草をゴミ袋に詰めていたら草の山の中から出てきて驚かされました。
 しかも、時には家の中にまで入ってくるやつもいます。昨年は礼拝堂にデカイのが居座っていたり、トイレの前でふんぞり返っていたのもいました。
 それにしても、今までこんなにカニがあちこちを徘徊している状況下で生活したことはありませんでした・・。
 しかも、実を言うと私は蜘蛛が大の苦手で、突然動き出すカニは一瞬大きめの蜘蛛と見間違えてしまうので、たぶん驚き方は尋常ではないと思います・・。
 もっと、目と精神を鍛えようと思います。

かに

 ちょっと恐いので、写真には小さめのしか撮れませんでした・・。
 
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石川さゆりさんの歌碑

2008年06月20日
波止場しぐれ1

 先日、豊島に行った折り、土庄港ターミナル入口の脇に記念碑のようなものがあるのに気付きました。今まで何十回となく土庄港を利用してきた上に、歌手の石川さゆりさんも好きなのに気付かなかったとは不覚でした。
 そう、石川さゆりさんが土庄港を歌った“波止場しぐれ”の碑なのでした。

波止場しぐれ2

 “小豆島 波止場しぐれ”と書いてあります。

波止場しぐれ3

 右下には歌手と作詞家、作曲家の名前も彫られています。

波止場しぐれ4

 面白いのは、この碑の左下に自動演奏機のような装置があるということです。
 写真を撮るだけでも結構恥ずかしいのを撮っているので、さすがにスイッチまで押す図太さは持ち合わせておらず、鳴るのか鳴らないのかは不明です。気になる人は土庄港ターミナルで試してください。もちろん、鳴ったか鳴らなかったかは私に教えてください。よろしければここで公表させて頂きます。

波止場しぐれ5

 スイッチはご覧のように前面右にあります。

波止場しぐれ6

 スピーカーは右側面にこのように着いています。
 仮に勇気を振り絞ってスイッチを入れられたとしても、もし大きな音量で鳴り出したら恥ずかしいでしょうね・・。

 そうそう、全くの蛇足ですが、以前(数年前)伊豆に行ったときに“天城越え”に出てくる“浄蓮の滝”を見てきましたが、そこにも“天城越え”の碑がありました。これです。

天城越え2

 ちなみにこれが“浄蓮の滝”です(静岡県伊豆市湯ケ島。狩野川上流にかかる伊豆を代表する名瀑で、高さ25m、幅7mの大滝。滝壷の下流には天城国際常設鱒釣場が、渓流沿いには天城名物のワサビ田も続いています。石川さゆりさんの“天城越え”だけでなく、川端康成著“伊豆の踊り子”などにも登場しています。もちろん“日本の滝100選”にも選ばれているそうです)。

 天城越え1


 誤解のないように言っておきますが、石川さゆりさんは好きですが、ファンというほどではありません。ムキになっている訳でもありません。
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刈り取られたサクランボの苗

2008年06月19日
 昨日、豊島に行って来ましたが、豊島といえば“さくらんぼ”です。
 以前ブログにも書きましたが、豊島教会からサクランボの苗を頂くことになっていたので、今回とても楽しみにしていたのでした。
 しかし、残念なことに、苗が切られていて今回は無理だったのです。
 香川豊島教会では庭の草刈りが外注のため、刈り払い機で庭中刈ってしまうため、サクランボの苗数本も数日前に周りの草と一緒に刈り取られてしまった所なのだそうです。
「夏にはまた伸びて来ているでしょう。」
という牧師の言葉を信じて帰って来たのでした。
 夏には会議でまた訪れる予定なので、それまでに伸びてくれていることを祈っています。
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豊島(てしま)に行って来ました

2008年06月18日
 最近特に出かけることが多くなっていました。
 今日は“さぬき四島伝道担当者会”のため、お隣の豊島にある香川豊島教会へ行ってきました。

航路地図

 土庄港にバイクを停めて、岡山県の宇野行きフェリーに乗って出発です。
 宇野行きは地図を見て分かるように、途中、豊島の“唐櫃港(からとこう)”と“家浦港(いえうらこう)”へ停泊するのです。 

土庄港ターミナル

 豊島はすぐお隣にある島なのに、高松に行くより高い船賃となります。高松港へは片道570円なのに対して、目指す豊島の家浦港までは750円なのです。手前の唐櫃港までだと450円ですむのですが、残念ながら香川豊島教会には遠いのでした・・。

船 豊島・宇野

 船には“宇野~豊島~小豆島”と書かれています。

カドヤ工場

 土庄はゴマを炒る強烈な香ばしい香りがしますが、それはこのカドヤのごま油工場があるからです。ごま油の全国シェアナンバーワンだとか。

唐櫃港


 唐櫃港までは30分程で到着します。集落のすぐそばで、とても便利そうです。
 普通、フェリーの側面を接岸させて停泊するものですが、ここでは前方だけ接岸するという離れ業が行われます。

家浦港

 これは家浦港。やはり集落のそばにあります。唐櫃港から20分くらいで到着します。

豊島フェリー内部・前

 船はそう広くはありません。
 私が乗るときは大体平日だからかもしれませんが、閑古鳥が鳴いています。

豊島フェリー内部・後

 でも、それで助かっている部分もあります。
 一部屋なのに、前部が禁煙なのに対して、後部の座敷部分は喫煙可能となっているので、分煙にもなっていないのです。
 それでタバコを吸う人が居ないとほっとします。

豊島教会1

 豊島教会も内海教会に負けず劣らず古くてほっとする教会です。
 港から徒歩で10分も掛かりませんが、いつも車でお迎えに来ていてくださるので恐縮です。
 豊島は湧き水が豊かで農業が盛んになった島。それで豊島と言うらしいです。
 小豆島に比べてのどかな田園風景があるので大好きです。
 小豆島に行く前に描いていた小豆島のイメージの島なのでした。残念ながら小豆島は中途半端に開発されていて、田舎なのか少し町なのかとても中途半端な気がします。
 いつか家族も連れて豊島を回ってみたいと思っています。
 
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under

2008年06月17日
 何かにつけ“見下してしまう”人がいます。
 しかも、そのことの違和感を本人は全く気づかないのです。
 人生経験や社会的地位であるとか、何がしかの実力や自信がそうさせるのかもしれません。
 “相手の目線に立つことの意味や、そのための努力の必要性を考えてくれたらなぁ”と、私のような下層の人間は思ってしまうことがしばしばあります・・。
 そういう人にそれは無理な注文なのかもしれませんが、せめて“理解”が英語で“understanding”というのを思いこしてくれたらなぁ・・とか思ってしまいます。
 
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天使が舞い降りる

2008年06月16日
 内海教会にミルトスを植えられた先生が、昨年来られた折に
「これだけ見事に育っているミルトスは観たことがない。」
と、おっしゃられていました。

ミルトス08-2

 写真のミルトスは2日前のもの。
 これで五分咲きといったところでしょうか。
 おそらく今が一番見ごろです。つぼみと花の割合が絶妙です。
 もう少しすると枯れた花も混じってくるので今ほど美しく見えないのです。
 ゼカリヤ書によると天使がこの木の間に立たれるとあります(正確には林の中ですが、内海教会の庭には9本も植わっているのでミニ林ということで・・)。
 「ここにも天使が舞い降りているかもよ~。」
 子供たちは“何のことやら”という顔をするばかり・・。
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多度津の就任式

2008年06月15日
 今日は多度津教会で牧師就任式がありました。
 1年半の間、牧師不在でしたから皆さんの喜びは大きなものでした。
 私も同じ分区内の牧師としてとても嬉しく思いました。

 就任式は午後3時から。
 内海教会の礼拝が終わるのが大体11時30分頃ですから、間に合うようにするには12時20分土庄発高松行きのフェリーに乗り込まないといけません。
 逆算すると11時50分には教会を出る必要があります。もちろん、バスなど使っている余裕がありませんのでバイクです。
 高松からも、電車に乗り換える時間や発車待ち時間などまったく余裕がないので、やっぱりバイクです。
 そう、結局バイクしか手立てはないのでした。
 私はバイク好きで本当に良かったと思っています。
 たとえば、今日は雨でしたが、たくさんの方に
「雨なのにバイクで大変ですねぇ・・。」
と言われましたが、雨合羽を着れば良いだけと、本人はいたって苦痛でも何でもないのでした。
 雪でもへっちゃらです。・・もちろん、大変ではありますけど・・。

 とにかく、お祝いに駆けつけることが出来て本当に良かったです。
 F先生今後とも末永くよろしく。
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岬の分教場での偲ぶ会

2008年06月14日
 小豆島を舞台にした壺井栄の小説“二十四の瞳”に出てくる“岬の分教場(と、お向かいの田ノ浦公民館)”で、今日の午後、ある方を“偲ぶ会”がもたれました。
 それは今年5月17日にお亡くなりになられたⅠ氏を偲ぶ会でした。Ⅰ氏はこの岬の分教場最後の“おなご先生”だった方で、二十四の瞳に登場する大石先生の直接のモデルではありませんでしたが、まさしく大石先生と重なる方でした。そして、内海教会の会員でもありました。

岬の分教場全景

 この岬の分教場は正確には“苗馬小学校田ノ浦分校(のうましょうがっこうたのうらぶんこう)”と言い、昭和46年の廃校当時をそのまま保存している分教場であり、すぐ近くにある“二十四の瞳映画村”と並んで観光客がよく訪れる場所です。
 まさにⅠ氏はこの場所で昭和23年より教鞭をとられており、偲ぶ会には最適の場所と言っていいと思います。県外にての葬儀だったため、地元の有志たちや教え子たちが企画したもので、100人ほどの方々がお集まりになりました。
  
岬の分教場黒板

 観光客も居られる中、分教場で“二十四の瞳”と“七つの子”を歌いましたが、タイムスリップしたように懐かしくて切なくて涙が溢れそうだったといわれる方もおられました。
 二十四の瞳という小説や映画がなければ彼女の生涯はもっとひっそりと目立たないものだったかもしれません。
 しかし、彼女の喜びと苦労に満ちた深い人生の現実はそんなものに左右されずに厳然と存在しています。
「当時としては信じられないけれど、先生は同じ目線で向き合ってくださった。」
とは、かつての教え子さんの言葉。
 一キリスト者としての確かな歩みがそこにありました。
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アジサイ

2008年06月13日
 内海教会は表通りの“喫茶サン”と“長松ふとん店”の間を入った奥にあります。
 “サン”の駐車場にはアジサイが植わっていて、毎年目を楽しませてくれます。
 今年もアジサイが元気に咲き始めました。

あじさい

 ところで“アジサイ”という名は“藍色が集まったもの”を意味する“あづさい(集真藍)”が訛ったものだと言われています(日本原産のアジサイの基本は青だったそうですから頷けます)。
 “集真藍”がどうして“紫陽花”になってしまったかと言うと、唐の詩人白居易が“ライラック(多分)”に名付けたものを、平安時代に源順という学者がこの“紫陽花”という漢字を“アジサイ”に誤ってあてはめて広まったのだそうです。
 “集真藍”はなかなか捨てがたい風情を感じますが、“紫陽花”には梅雨時を明るくする輝きがあるような感じがします。
 それに今では、(土地のphに左右されるとは言え)ピンク色など華やかな色どりもありますから、“紫陽花”はぴったりな気がします。
 アジサイ良いですね~。
 そう言いつつ、実は教会の庭にも植えようかどうしようかと毎年今頃頭を悩ませているのです。
 ただ、アジサイの枝の伸び方が尋常ではないことを知っているので、毎年悩んだ挙句に継続審議になっているのでした・・。
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蛍の淡い光と希望

2008年06月12日
 小豆島の“中山”というところで、今“蛍”が観頃で、ものすごい数の蛍が乱舞していると聞きました。
 蛍を眺めるのは大好きなので行ってみたいのは山々ですが、小さい子供たちの就寝時間と重なってしまうため次男と三男、それに妻は行けません。
 それで諦めていたのですが
「お兄ちゃんと二人だけでも行ってきたら?」
と、妻に勧められるので、長男に
「蛍観に行かないか?二人だけど。」
と、聞くと
「えっ、お父さんと二人ぃ!!やめとくわ。」
と、つれない返事。
 仕方ありません。そういう年頃ですよねぇ・・。蛍だし・・。
 下の子供たちがもう少し大きくなるまでの辛抱です。
 蛍好きなんだけどなぁ・・。

 しかし、どうして人は蛍を観るのが好きなのでしょう?
 どうしてあの淡い光を眺めていると時間を忘れてしまうのでしょう?
 あのえも知れぬ安堵感を感じるのは何故なのでしょう? 
 私だけではありますまい・・。

 でも、蛍が好きなのに理屈はいらないのかもしれません。

 ただ、蛍はちょっとした環境の変化でそこに住めなくなる弱さを持っています。
 幼虫の時は鋭い口でカワニナという貝をバリバリ食べるのに、成虫になると水しか飲めなくてほんの数日間しか生きられないはかなさを持っています。
 ほんの少しの人工照明でその淡い輝きは消えてしまいます。
 私たちの“希望”や“夢”に似ている気がします。
 そんな蛍の群れを観ていると、はかない夢でも希望を持って自由に飛びまわれる(生きていく)方法がいくらでもあるという気がするからかもしれません。

 誰か私の代わりに観てきて下さいませんか。
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実り

2008年06月11日
 麦が実るシーズンとなりました。写真はうどんづくりに使われる有名な“さぬきの夢2000”です。
 麦は聖書にもよく登場するので何となく身近に感じます(もちろん、種まきや麦踏みも収穫もしたことはないので、勝手な言い分ですけど・・)。

麦2000

 実り輝く麦の穂波を見ていると“神様からの豊かな恵み”を感じます。
 しかも、その恵みは新約聖書マタイによる福音書5章にあるように、すべての人が受けているはずなのです。
 「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる。」
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ミルトスの花が咲き始めました

2008年06月10日
 今年もまた“ミルトス”の花が咲き始めました。
 内海教会の敷地には高さ1.2m程度のミルトスの木が9本植わっています。

ミルトス08①

 ミルトスは聖書に何度か出てきますが(イザヤ書、ネヘミヤ記、ゼカリヤ書など)、日本ではそれほど知られていないと思います。
 ミルトスは毎年6月中旬頃に愛らしい花で目を楽しませてくれます。

ミルトス08②

 花の大きさはせいぜい3cm程度ですが、先だけ黄色い純白のオシベが、白い花びらと相まってなんとも言えない可憐な姿です。
 しかも、数センチおきにつぼみがあることから分かるように、満開になると、まるで淡雪が積もったような気品ある雰囲気となります。おだやかな芳香も魅力です。

ミルトス08④

 今月いっぱいは楽しめます。近くに来られましたらぜひご覧ください。
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コメントは承認後表示に

2008年06月09日
 一週間のうち数回は迷惑なコメントが寄せられます。(アドレスを見つけて一方的にコメントを投稿させるソフトを使用しているような)広告などです。
 検閲するようなことは嫌だったのですが、下品なコメントがあるかもしれないという不安を感じるようになってきたので、コメントは精神衛生上チェックしてから掲載させて頂くことにしました。
 今までは、変なコメントがあるたびに、そのコメントを削除する前に差別用語や不快語、卑猥な言葉などを禁止語句として登録し、その言葉が含まれているコメントは次回より掲載されないようにしてきたのですが、増え続ける禁止語句にも嫌気が差してきていました。そういうコメントの投稿主のアドレスをを拒否リストに加えたりもしてきましたが、次から次へとやってきます。
 ネット世界の弊害ですね・・。
 仕方のないことかも知れないと思いつつも、今日、未成年者でブログ作成を楽しんでいる人たちがいる訳で、そんな若年層の人たちのブログにも同様の迷惑コメントがあるのだろうと思うと腹立たしさを感じます。
 求めていない人のところに要らぬ情報を送りつけるのは本当に迷惑です。
 そのうち、法的にも整備されてくる日がやってくることを心から願っています。
 “承認後表示”ということになり、皆様には深いな思いをかけるかもしれませんが、それ以上に不快な思いをしていただきたくないという思いをご理解ください。

 
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大物ゴミの日

2008年06月08日
 今日は年に一度の“大物ゴミ収集日”でした。
 そう、なんと年に一回しかないので、この日を逃すと大変なことになります。
 そんな訳で、我が家では一年かけてこの日に捨てるものを抜かりなくリストアップしてきました。捨て損ねてもう一年待つのはごめんですから。
 ゴミの収集は昨日の夕方5時30分~8時と、今日の朝8時~10時でした。
 私は日曜日教会があるのと、捨て損ねると大変なので、昨日のうちに持って行きました。
 この地区の収集場は片城公民館前のだだっ広い広場なのですが、次から次へと運ばれてくる大物ゴミは相当なものでした。
 昨日の夕方6時の時点で既に自転車だけでも50台以上並んでいました(そういえば、岡山にいた頃、粗大ゴミで捨てられている自転車3台で1台に組み立てなおして乗っていたのを思い出しました)。
 その他、“家具”であるとか“布団類”、“燃えないもの”、“燃えるもの”などなどプラカードが立てられて仕分けされていて、そのプラカードの前に並べていくのでした。
 どれもこれも既に何メートルも手前まで並んでいましたから、明日の朝には甲子園大会の入場式のようになっているかもしれないと思いました。
 そういうゴミの列の前に、何か使えそうなものを持って帰ろうと物色している人たちや、仕分けの指示をしている(町内の)係りの人たちや、リサイクル業者らしき人たちでごった返しているのでした。
 面白いのはみんな楽しそうな笑顔なので、まるでお祭りみたいなのです。
 そんな訳で、思わず私も長男とゴミの山を一回りして覗いてしまいましたが、確かに楽しい気がしました。
 ・・しかし、年に2~3回あるともっと楽しいし、楽なのですが・・。
 
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この道の彼方には

2008年06月07日
足


 ふと、自分はどこに立っているのかなと思うことがあります。

 何を拠り所として、何を信じて、何を求めて生きているのかなと、ふと思うのです。

 何処から来て、何処へ行こうとしているのか、ということかもしれません。

 今向かっている道の彼方に求めているものはあるのかな。

 そもそも何を求めて生きているのかな。

 歩き続ける自分の足元は、自分で思うより元気そうだけど。


 飛行機雲
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Kくん大暴れ

2008年06月06日
 今日は高3の長男の進学説明会があったため高校へ行ってきました。
 そういえば自分が高3で受験を控えていた頃、“毎日どんなことを考えたりしていたかなぁ”などと、空き時間に廊下に腰掛けて少し感傷に浸ってしまいました。
 ところが家に帰ってくると、そこには辛い現実が待っていました。
 2歳の三男が私の書斎で好き勝手したらしく、鉛筆立てはひっくり返っているわ、ペン類は散乱しているわ、机と机上の書類、それにパソコンのキーボードはいたるところをボールペンでグリグリ落書きされているわ、デスク横に飾ってあった人形はバラバラになっているわという始末・・。
 ま、三男が怪我をしなかったという事でよしとしましょう・・。
 液晶モニターも無事でしたし・・。
 
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校正~反省

2008年06月05日
 日本キリスト教団の“四国教区だより”の6月発行分の原稿の校正がやっと終わりほっとしています。
 6月2日の委員会前に各委員がチェックし、委員会でもチェックしたので“これで完成だ”と思いきや、タイプミスが後から出てくること出てくること・・。
 執拗なまでの再三のチェックを経て、昨日やっと“本当にこれで終わりだろう”というところまでチェックしたのもつかの間。今日、朗読ボランティアの方からミスがありますよとのご指摘。
 がぁん、がぁん、がぁん・・・・・。
 ここまで徹底的に校正したので、さすがにもうミスは残っていないとたかをくくっていただけに意気消沈気味になりかけましたが、それでも“正誤表”を添えなくて済んだという安堵感の方が勝ったため、気分はむしろ上向きでした。
 それにしても、延べ人数で言えば相当数の者がチェック下のに情けない限りです。しかも、何度も何度も読み返した挙句ですから・・。
 改めて、自分たちの読み返し方の甘さを痛感しました。
 そこではたと思ったのは、“じっくり声に出して読み返すと言う基本”がなっていなかったのだということです。
 時間を惜しむあまり、結局不必要な時間をロスしていた訳ですし、手間隙も数倍かかっていたのです。十二分に反省させられる出来事でした。
 「そういえば教会で毎週発行する週報もミスが多いんだよね。」
とポツリとつぶやくと
「僕もですよ!」
と編集委員たち・・。
 お互いこれをきっかけに心を入れ替えようね。
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弱さの強さ暖かさ

2008年06月04日
 「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(新約聖書Ⅱコリント12:9)」という言葉があります。
 若い頃は“そんなことは無いだろう”と思っていましたが、年を経るごとに“確かにそうだ”と思えるようになってきました。
 痛みを理解し、悲しみを共有してくれる人暖かい人は、やはり痛みや悲しみを知っている人です。
 苦労したことの無い人、困窮した事の無い人、強い人、豊かな人の殆どは、その高みから見下ろしてはくれますが、同じ目線での受け応えをしてくれないものなのです。
 痛むことは分かっても、痛む辛さがどんなに苦しいものなのか分からないのでしょう。
 痛みや苦しみが理解されない事は人を二重に苦しめます。
 上からでも下からでもなく、ただ普通に自分を理解してもらえることが、どれだけ救われることかを知っている人は、弱さを味わった人でしょう。そして本当の強さを持った人になっているのだと思います。
 弱さゆえに人の痛みに寄り添ったり、受け止めたりする暖かな生き方が自然と分かるようになっています。
 どんなことでも心に痛みや悲しみを味わったなら、人の痛みを感じ取るすべが自然とその人のものになるのかもしれません。
 “弱さを持っていたり知っている人は、人生の真実のすぐそばにいる”そんな気がしています。
 
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困った時こそ神頼み

2008年06月02日
 “困った時の神頼み”という言葉があります。
 キリスト教的に考えると“ご利益信仰的”であり、“自己中心的”だということで、“それは本当の信仰ではない”とバッサリ切り捨てられるものです。
 しかし、その反面“祈る”という行為には“自己を越えた存在”に対する畏敬の念や希望を呼び覚ます可能性が秘められているものだと思うのです。
 たとえば“子育て論”とか“健康法”などで考えてみると分かりやすいと思うのですが、、人によって実に様々なことを言うものです。しかも、それは結局、その個人の経験に基づいて語られていることが殆どです。つまり、人は自分という枠からなかなか出られない存在なのです。
 自分の考えられる枠の中で、自分の現状を願望や理想と照らし合わせて、喜んだり嘆いたり悲しんだりするものです。
 時には“自分には何も無い”とすべてを否定するようなことまで考えることがあります。本当は自分の命や体、存在そのものに始まって実にたくさんの賜物を持っているのに、自分では気づけない部分があります。
 “キリスト教の人って、目に見えない神様を有難そうに拝んで気持ち悪ぅ”と、ある女子高生に言われたことがありますが、目に見えない存在に対して祈ることが出来るなら、自分という枠のタガを外して、自分ひとりでは気付けなかった自分に出会えるようになると思うのです。
 しかも、人間ってどこまで行っても、自己中心的な存在(聖書で言う“罪”を持っている存在)なのですから、敬虔なキリスト者の祈りにしても“困った時の神頼み”的な要素が無いとは言い切れないものではないでしょうか。
 そうであるなら、むしろ積極的に“困った時こそ神頼み”でいいような気がするのです。
 “神様、こんなこんなで、こんなに私辛いんだ”と胸のうちを目に見えない神様に向かって吐露してみてはいかがでしょうか。
 祈り続ける中で、何かが生まれ変わるかもしれませんよ。
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えっと、そうなの?

2008年06月01日
 今日、ある教会員さんから、“友人がエルサレムを旅して来た”という話を聞きました。
 キリスト者でないのにエルサレム旅行とはしゃれています。しかも、ディア・ドロローサ(悲しみの道:イエス・キリストが十字架を背負って歩tかされた道)など、とにかく感動して帰ってこられたとの事。
 それもそのはず。なんでも、出発前から聖書を読んだり基礎勉強をして行かれたというのです。
 かつて、若い女性に中近東旅行が静かなブームだったことはありますが、“死海の塩で塩揉みエステ”だとか、まったくキリスト教的要素が無いものでした。しかし、この方はまさに聖書の世界を旅してこられたのだと思うと、尊敬の念さえ生じてきます。
 経済的なことを言えば不可能ですが、それでも“いつか私も一度はエルサレムに行ってみたい”とは思っています。
 ところで、その教会員さんが言うのに、
「現地でガイドさんの解説混じりに見聞きし経験したことで、たいそう感動して帰ってこられたみたいです。それは素晴らしい事ですが、聞いていると所々聖書的にも歴史的にもおかしいなぁと思う事を(解説で)聞いてきているみたい・・。」
と仰るのです。
 たとえば“イエス・キリストの死後300年以上経ってキリスト教が成立した”というように、史実と反する事柄がまことしやかに解説されていたらしいのです。どうやらローマ帝国の国教になるまでの迫害時代の初代キリスト教をそのガイドさんは知らないのでしょう。
 そういえば以前、
「とある美術館でアダムとエバの絵の解説をそこの館長から解説して頂いたとき、“結局、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたと言うのは、性の目覚めのことなんです。木の実を食べたら自分たちが裸であることが分かって恥ずかしくなっているところからもそうであることが分かります。”と言われたので、その通り信じていました。」
と仰る方がいらっしゃいましたが、残念ながらそれは間違っています。彼らが木の実を食べる前に神様は彼らに向かって“産めよ増えよ”と命じているのです。
 結構、聞きかじった中途半端な知識というのがいろんなところにあるのだなぁと思いました。
 しかし、友人がエルサレム旅行に行かれたというその教会員さんは、話を聞きながら“ちょっと変なんだけどなぁ”と思いつつも、聖地で感動して帰ってこられた友人のその感動に水をさしたくないからと、“あえて間違いは否定しなかった”との事。
 優しいなぁ。
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