はかなさと力強さと優しさ

2011/04/18 Mon 20:09

盆栽のような桜

 今週はキリスト教の教会歴で“受難週”といって、キリストが十字架にお掛かりになられた最後の一週間を覚える週です。

 今週の木曜日が、あのレオナルド・ダビンチの絵画で有名な“最後の晩餐”の日。

 イエス・キリストはこの日のうちに捕縛され、ローマ総督の裁判にかけられ、翌金曜日に十字架の刑に処せられるのです。

 キリストは無実の罪をきせられ、兵士たちに釘で手足を打ち付けられ、槍で脇を刺され、十字架で死ぬことになります。

 このときキリストはあざける兵士たちのことを神に祈ったと書き記されています。

「父よ、彼らの罪をおゆるし下さい。自分で何をしているのかわからずにいるのです。」

 英雄の死でも、華やかな死でもありません。

 人々に見捨てられ、神にも見放されたみじめな死であり、私たちすべての人間の罪の身代わりの死でした。

 そのはかなさと力強さと優しさが、桜の大木の脇の地面にそっと咲いている花を見ていると、穏やかに思い起こさせられる気がしました。

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思ったこと | コメント(2)
コメント
 悲しいかな、真理は格好悪く、非力で、惨めなのですね。ゆえに、宗教が必要なのではないでしょうか。真理から離れて生きても同じく無様でみっともないのです。ならば、真理を発見して、それにしたが言い切る道を生きるしかないと思わされます。思わせるのが宗教ではないでしょうか。
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確かに、キリスト教を信じても、
金持ちになれるわけでもなければ
人格者に生まれ変われるわけではありません。
しかし、自己中心的な自分からは、
全く見えなかった喜びや平安が与えられるのは事実です。
それは諦めではなく、真理が人を自由にするということだと思います。

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