正しい人はいない
2013 / 05 / 23 ( Thu )
鳥羽展望台より

 新約聖書ローマの信徒への手紙3章10節に「正しい者はいない。一人もいない。」とあります。

 本当にそうだなと思います。

 どんなに純粋な思いに満ち満ちていたとしても、人は一つの善意に自己賞賛や見返りを期待する想いが追随してしまうものです。

 恨みや妬みを抱かない人もまずいません。

 自他共に認めるどんなに正しい人も、究極的正しさからは遠く及ばないものです。

 もちろん、みんな悪人だと言うのではありません。

 “正しさを求めつつも、中途半端な正しさしか持っていない”のが人間なのではないでしょうか。

 聖書では人間のことを“罪人”といいますが、これは“つみびと”であって“ざいにん”ではありません。

 そもそもここでいう“罪”も犯罪の類の意味ではなく、“まとはずれ”という意味の言葉です。

 「こうするべきなんだがな・・」「こうした方が良いだろうな・・」と思っていても、なかなかそれが出来ない。

 しない方が良いことをしてしまい、すべきことがなかなか出来ない、そんな性質を人は持っているよというのが“罪人”という言葉の意味です。

 だから、人は愛しい存在なんだと私は思います。

 だからこそ、神様は人を心の底から愛されているのだと思います。

 “罪赦された罪人”に過ぎない自分であることをわきまえて、私は生きていたいと思います。

 それを抜きにして、キリスト信仰に生かされているということで、自分はあたかも“罪赦された正しい人”であるかのように誤解してしまったら、たちまち臭気を放ってしまうでしょう。

 罪赦された罪人として明日も私は生きていたい。



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コメント
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by: * 2013/05/23 19:08 * [ 編集 ] | page top
--鍵コメントさんへ--

すべて恵みです。
受け身で考えています。
by: ショウゴ * 2013/05/23 20:37 * URL [ 編集 ] | page top
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by: * 2013/05/24 13:16 * [ 編集 ] | page top
--鍵コメントさんへ--

何か勘違いされているようです。
私の信仰は私のものとも言えますが、神様から与えられたものであり、神様とつながらせていただいているからこそ存在しているものです。
そのつながりを無視して信仰を考えると、信仰はあたかも自分の所有物のように考えてしまいがちとなります。
自分の所有物の信仰という視点であるなら、神様ではなく自分が中心となりますから、自分にとって好ましいことや幸せだなぁと感じることのみが恵みであり、自分にとって嫌なこと好ましくないことは恵みが与えられていない状態と考えてしまうことになります。つまり、信仰と言いつつ、それは自分の感情に左右される思いに過ぎないのではないでしょうか。
人間は好ましいものを手に入れたり、不幸と思えるものを解消していく先に幸福があると考えやすいものですが、実際はそうではありません。どんなに物事を解決したり欲しいものをすべて手に入れても、不安材料も欲しいものも尽きません。反対に、逆境の中にあったり、苦しみを背負いつつ生きているというのに、喜び似満ちて生きている人もいます。不満を減らす先に幸せがあるのではなく、小さな恵みや感謝を見つける生き方に幸せがあるような気がします。
それを可能にするのが、神様から与えられた信仰ではないでしょうか。
信仰は自分で作り出すことも、立派にすることも出来ません。
ただ、神様に与えられたという謙虚な思いによって、信仰が信仰としてあなたを救うのではないでしょうか。
珍しく説教じみてしまいました。ごめんなさい。
by: ショウゴ * 2013/05/24 14:42 * URL [ 編集 ] | page top
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by: * 2013/05/24 16:34 * [ 編集 ] | page top
--鍵コメントさんへ--

苦難の時、人は一番神様のそばにいます。いや、神様がそばにおられます。安心してください。
反対に、幸せ感に満ち満ちている時、神様の祝福を豊かに感じるとき、人は神様から離れているものです。
信仰には薄いとか弱いとか形容詞が付いたりしますが、それは主イエスの優しさと配慮から出た言葉で、厳密には“あるかないか”です。
からしだね一粒ほどの信仰・・当時考えられた世界で一番小さなものにたとえている事からも、それは分かります。
神様の愛に対する謙虚さと信頼に尽きます。何の頑張りも要りません。
by: ショウゴ * 2013/05/24 17:19 * URL [ 編集 ] | page top
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by: * 2013/05/24 17:36 * [ 編集 ] | page top
--鍵コメントさんへ--

祈っています。
by: ショウゴ * 2013/05/24 20:23 * URL [ 編集 ] | page top
--はじめまして--

ご来訪、いつもありがとうございます。

>正しい人はいない

有意義な刺激、ありがとうございました。
 
by: kisuke(喜助) * 2013/05/24 20:38 * URL [ 編集 ] | page top
--kisuke(喜助) さんへ--

恐縮です。
こちらこそ、受け止めていただけたこと
とても嬉しく思います。ありがとうございました。
by: ショウゴ * 2013/05/24 20:47 * URL [ 編集 ] | page top
--No title--

世の中は不条理なことがたくさんあります。あまりにたくさんの不条理なことがあるのにどうして神様を信じられるのですか。
by: オレンジ * 2013/06/03 23:08 * URL [ 編集 ] | page top
--オレンジ さんへ--

ほんとうに世の中、眼を覆いたくなるような不条理なことがたくさんありますね。
神様が全能のお方なら、どうしてこのような不条理をそのままにしておられるのかと、いぶかる方も大勢おられると思います。
しかし、この世の不条理は、人間が生み出したり引き起こしているものです。
戦い、卑劣な犯罪、詐欺、搾取、誹謗、中傷、妬み、嘘、いじめ、差別、暴力・・。
不条理な事柄を生み出し引き起こす人間をどうにかしてほしいという願いは素直なものだと思います。
しかし、ではこのような人間を地上から消し去ってください、という願いが正しいもので、神様に聞かれるものだとしたらどうなるでしょうか。
・・おそらく地上に人は一人も存在しえなくなります。
誰もが罪人だからです。あなたも私もそうです。
軽い嘘、人をうらやむ心や、人と比較して一喜一憂する心、無関心etc.全ての不条理はそういうところから生み出されていきます。そして、誰もこれらの罪から無縁ではありません。
神様はそれを嘆き、また嘆き苦しみあえいでいる私たちを愛されています。
人間には望みをおくことができなくても、神様には希望をおくことができるということです。

不条理を差のままにしている神様を信じられるか、という言葉には
罪深い人を消し去ってほしいという潜在的な願いが込められていると思います。
しかし、それは自分の罪を棚に上げた上での願いです。
自分の現実や限界、人間の現実や限界を認識すれば、ものの見方が開けてきます。

でも、やっぱり神様が全能なら、人間が罪を犯さないようにしてくれたらいいのにという思いが湧いてくるかもしれません。
しかし、人が罪を犯すのは自由意志が与えられているからです。
神様は人間に自由意志を与えられました。
神様を信じないことも呪うことさえ自由です。
人が正しいことのみ行い、神様を無条件にあがめるように作られていたとしたら、人は本当に幸せですか。
そのような存在はロボットみたいです。ただのあやつり人形です。
神様は人をそのような存在としてお作りになられませんでした。
罪を犯しつつも、悩み考え、成長し、優しさや愛を身に付けて行く存在とされました。

思いついたことをあれこれと書いてみました。
いろいろと考えてみてください。
by: ショウゴ * 2013/06/04 10:18 * URL [ 編集 ] | page top
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